『吉村昭歴史小説集成第三巻』(岩波書店、2009年)では前半に『彦九郎山河』が、後半に『長英逃亡』が収録されている。
『彦九郎山河』では22年前が明和4年(1767年)で3年前が天明6年(1786年)とあるので1789年、天明9年が寛政元年に改元された年の話であろう。

『長英逃亡』は213ページから。
「一」は天保15年(1844年)6月下旬、江戸の牢屋敷から話が始まる。
長英が投獄されたのはそれから5年前、天保10年(1839年)5月19日であった。入牢したとき、長英は36歳。
1844年に長英は脱獄したが、長英投獄の原因を作った鳥居耀蔵はそのすぐあとに失脚しており、長英はあと2箇月辛抱していれば釋放されたかもしれないと後悔したとこの小説では書かれてある。

「十四」の551ページで、当時、江戸にいた徳久忠助という人物がのちに藩命によって宇和島に戻され、「翌嘉永二年(一八二三)二月二十七日」に「算術、天文、測量抜群ニ付」として御徒士役から藩士に昇進とあるが、「嘉永二年(一八二三)」は間違いだろう。嘉永2年は1849年であるから「嘉永二年(一八四九)」とすべきだ。
1823年だと文政6年になり、シーボルト来日の年だ。

小説で長英は脱獄後、弘化3年に一度帰宅し(470~493ページ)、また江戸から離れ(十二、505ページ)、最終的にまた江戸に戻る決意を固めたのは、長英の没年となる1850年、嘉永3年のことであった(十七、年号がわかる部分は582ページと586ページ)。


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2010年10/20