「余の顔を見忘れたか」という決め台詞について
大野敏明氏は『歴史ドラマの大ウソ』で『暴れん坊将軍』についても言及しており、「余の顔を見忘れたか」という吉宗の台詞を取り上げ、大名や藩の家老が将軍の顔を見ているわけがないと指摘している。
大野敏明氏は『歴史ドラマの大ウソ』で『暴れん坊将軍』についても言及しており、「余の顔を見忘れたか」という吉宗の台詞を取り上げ、大名や藩の家老が将軍の顔を見ているわけがないと指摘している。
『暴れん坊将軍』の第8部第10話で江戸城で水戸藩主・徳川綱條と町で再会して江戸城で改めて会い、第11部最終回では長州藩主・毛利吉元とも江戸城で会って、江戸の町で何度か出会い、改めて江戸城で会っているが、いずれも御簾を上げさせて、相手にも顔を上げさせて、互いの顔を観るようにしている。第9部第20話で備中新見藩主・関但馬守が町人に化け、め組の屋敷で吉宗と出会ったが、このときも但馬守は城内で吉宗の顔を見ていたようである。
『暴れん坊将軍』の吉宗は大名や家老とも会い、御簾を通さず、平伏している相手にも「面を上げい」と言って直接相手に顔が見えるようにしているわけだ。そういうコンセプトだから「成敗」のとき「余の顔を見忘れたか」と言っているわけである。水戸藩の江戸家老でも吉宗の顔を知っていたのは、そういうときのために顔を見せていたからだろう。
確かに「史実」では大名や旗本は吉宗に平伏するだけで、しかも御簾を通しているので将軍の顔は見えず、家老が将軍の顔を知ることはなかっただろうが、『暴れん坊将軍』はその前提を変更しているわけである。だからこの番組を「史実」から検証するなら、「余の顔を見忘れたか」の台詞だけから話を始めるのでなく、劇中で吉宗が家臣と江戸城で会う場面から話を始めるのが最良であろう。
└→『空想科学読本3』と『歴史ドラマの大ウソ』における『暴れん坊将軍』についての細かい誤解
└→『空想科学読本3』と『歴史ドラマの大ウソ』における『暴れん坊将軍』についての細かい誤解
確かに大野氏の言うとおり、「史実」では大名が江戸城で将軍と「会う」機会があっても平伏するだけで将軍の顔は見えず、将軍は御簾の向こうであろうし、藩の家老が将軍と会うきかいなとは将軍が藩の江戸屋敷に来たときだけで、その家老も遠くから平伏するだけで将軍の顔なども見えないだろう。
しかし『暴れん坊将軍』では前提が存在しないのである。
しかし『暴れん坊将軍』では前提が存在しないのである。
また、将軍が御簾の向こうで滅多に顔を見せないなら影武者がいてもいいことになる。
それで『将軍家光忍び旅』のように、上洛のために江戸~京都を往復中の家光が、駕籠に影武者の新吉を乗せ、自らは浪人に化けて歩くという話が出てくる。この場合、新吉は各地の将軍御座所で将軍の恰好をして、御簾の向こうの上座に座っていればよかったのである。
それで『将軍家光忍び旅』のように、上洛のために江戸~京都を往復中の家光が、駕籠に影武者の新吉を乗せ、自らは浪人に化けて歩くという話が出てくる。この場合、新吉は各地の将軍御座所で将軍の恰好をして、御簾の向こうの上座に座っていればよかったのである。
すると、むしろ浪人姿で「とくやまたけのしん」と名乗っている家光が将軍だと証明することが難しくなり、浪人姿の家光に冤罪がかかり、人相書きが出たこともある(『大岡越前』では吉宗そっくりの人相書きが出た)。
『将軍家光忍び旅』では家光は葵の紋のついた笛を持っており、柳生十兵衛が「3代将軍・徳川家光公なるぞ」と言って相手を平伏させていた。相手は「上様は本陣におられるはず」と言って抵抗していたが、当然だろう。
ドラマの中の家光の忍び旅は1634年、家光が将軍になったのは1623年だから将軍になって11年後であった。この11年間に幕臣也各地の大名が家光の顔を覚えていないと、忍び旅の効果はなかっただろう。すると忍び旅のときになって、「3代将軍」は御簾の向こうにいることが増えたことになる。
『将軍家光忍び旅』では家光は葵の紋のついた笛を持っており、柳生十兵衛が「3代将軍・徳川家光公なるぞ」と言って相手を平伏させていた。相手は「上様は本陣におられるはず」と言って抵抗していたが、当然だろう。
ドラマの中の家光の忍び旅は1634年、家光が将軍になったのは1623年だから将軍になって11年後であった。この11年間に幕臣也各地の大名が家光の顔を覚えていないと、忍び旅の効果はなかっただろう。すると忍び旅のときになって、「3代将軍」は御簾の向こうにいることが増えたことになる。