その1
/「八木倍年説」をヒントに古代の天皇の即位年を計算・その1/

15応神天皇は即位が270年2月8日。270年は紀元前660年から930年ほど。
半分にすると465年。181年から465年後は645年か646年。大化の改新のときだが、当時は35皇極天皇ではなかったのか?
皇極天皇は642年即位で倍年説を採用すると833年即位。平安時代の天皇になってしまう。

 

16仁徳天皇は257年生まれ、313年即位、399年没で経年143歳。
しかし倍年説では神武即位から917年後に生まれ、973年後に即位し、約1060年後(1059年後)に没したことになる。
半分とすると神武即位から約460年後に生まれ、487年後に即位し、約530年後に没したことになる。経年70歳ほどだ。
神武即位が181年とすると西暦640年ごろに生まれ、668年ごろに即位し、710年ごろに没したこととなり、飛鳥時代末期の人になる。

 

25武烈天皇は498年即位。紀元前660年から1158年。半分は549年。181年に足すと730年即位。
26継体天皇は507年即位。紀元前660年から1167年後。1168年として2で割ると584年。181年から584年は765年。
倍年説では大佛開眼と鑑真和上来日は武烈天皇の時代になる。

 

538年または552年、佛教傳来のときの29欽明天皇は539年即位。神武即位年を紀元前660年とすると約1200年後に即位したことになる。倍年説による神武即位年181年から600年後に即位したとすると781年。
百済から佛像と経文が傳来した欽明天皇13年は552年とされているが、倍年説で欽明天皇即位13年目は793年で平安遷都の前年。奈良時代も終わりにさしかかった時期で、753年の鑑真来日から40年後、630年の第1回遣唐使から163年後になってしまう。

 

33推古天皇は592年(陽暦593年)即位で倍年説で計算すると807年即位。やはり在位期間が飛鳥時代から平安時代になってしまう。

 

45聖武天皇は奈良時代の724年即位で、倍年説で計算すると873年即位で平安時代の天皇になってしまう。

 

平安遷都を成し遂げた50桓武天皇は781年即位。倍年説では902年即位で、まだ倍年説のほうが、後(あと)の即位になる。
51平城天皇の場合、806年即位。神話上の神武即位から1466年。半分の733年を倍年説の神武即位年181年に足すと914年。やはり傳えられる即位年806年よりも108年後(あと)になる。
52嵯峨天皇は809年即位で、神話上の神武即位から1469年。1470年として2で割ると735年。倍年説での神武即位年181年からこの歳月が流れたとすると916年即位。今度は傳えられる即位年より113年後だ。

 

77後白河天皇は1155年即位。倍年説で計算すると1089年即位。このあたりになると倍年説で計算した即位年のほうが前に(古く)なる。

 

つまり、八木倍年説で計算した結果の天皇の在位期間が傳えられる天皇のそれと一致するのは52嵯峨天皇のあたりである。

 

聖武天皇の時代、天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大佛の開眼法要がおこなわれ、2年後の天平勝宝6年(754年)には唐から鑑真が来日、皇后や天皇とともに会ったが、倍年説ではこのときの天皇は聖武天皇ではなく武烈天皇だったのだろうか。
あるいは大佛開眼と鑑真来日は平安時代だったか?

 

補足
新しい歴史教科書をつくる会【東京三多摩支部】」のブログ記事「神武天皇即位の年は西暦181年」とのことでは10崇神天皇崩御の年は西暦318年、16仁徳天皇崩御の年は西暦427年、33推古天皇崩御の年は西暦628年とある。
すると崇神天皇は神話で紀元前148年から紀元前30年(陽暦で紀元前29年)なので118年生きたことになるので、半分として59歳、数え年60歳くらいで没。崇神天皇が西暦318年没なら西暦258年から260年までの時期に生まれたことになる。
即位は紀元前97年で51歳(数え年52歳)のときなので26歳だったとすると285年ごろ即位。
神武即位から間が9代なので、西暦181年の神武即位から105年ほどの間に9人の天皇がいたとすると1代平均12年弱。

 

仁徳天皇は427年没なら70歳まで活きたとして西暦357年生まれか。推古天皇の没年は普通の資料と同じだ。56歳で即位したとされる仁徳天皇が実際は28歳で即位したとすると383年即位。
181年から383年まで202年。神武即位から仁徳天皇即位まで間が15代なので1代当たり約13年半。

 

33推古天皇は592年即位とすると倍年説の神武即位から411年または412年。32代で割ると13年弱である。

 

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2010年9月 9/23 9/26

 

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