『水戸黄門』で訪問先が高松、庄内(鶴岡)、越後の場合・補足

『水戸黄門』第30部第14話では光圀が紀州で伊賀忍者から襲われ、黒幕は柳沢吉保らしく、紀伊光貞が光圀を守ろうとしたらしい。しかし第37部では光貞が光圀の敵になっていた。これはどういうことか。
第30部は紋太夫事件の直後のようなので1694年末か1695年以降である。第37部の時代設定は1698年と思われるので、この3年ないし4年間で光貞が光圀を敵視するようになったか。

第38部第5話で光圀はいつもやっている潜入捜査に源六(のちの吉宗)を誘い、おとり捜査に近いことをして(後半の展開は源六の勝手な行動も原因だが)、源六が敵に手に落ちて危ないところに光圀が駆け付けた。また、問題解決後、源六が相変わらず「父上(光貞)は自分を見捨てた」と思い込んでいたとき、光圀は「紀伊大納言殿のお叱りを覚悟で申しましょう」と前置きして「光貞公は源六殿が元服ののちは獅子がわが子を谷底に突き落とす覚悟でその成長を見守りたいと申された」という趣旨の説明をしている。
第38部の時代設定は第9話から1697年(元禄丁丑の年)だとわかる。

この話で光圀が紀州を訪れた当時、光貞は紀州におらず、江戸にいたようである。結果として源六が心を入れ替えたからいいものの、光貞にとっては自分が不在のときに水戸中納言・光圀が紀州で勝手なことをして源六を危ない目に遭わせ、あるいは光圀が源六に余計なことをしゃべったので、それで紀伊大納言が怒って次の年に第37部最終回のような結果になったのだろうか。
それに1697年当時、吉宗は江戸で綱吉に謁見していたはずである。第38部で光貞が江戸にいたときに吉宗(源六)がまだ紀州にいたとすると、吉宗はあとで江戸に行ったのだろうか?

『暴れん坊将軍』第8部第10話では水戸綱條の危ないところを紀伊出身の吉宗が助けている。紀伊光貞の隠居直前から20年までの間に水戸と紀伊は和解したようである(下注釋)。

前後一覧
2009年10/13前後
2010年9月 [2] 9/21

関連語句
光貞 TBS TBSナショナル劇場 光貞 光圀 吉宗
【人物】(江戸時代初期) 【人物】(江戸時代中期)


注釋
水戸と紀伊は和解したようである
もっとも、TBSナショナル劇場とテレ朝時代劇の世界を分けて考えると、『水戸黄門』の源六はTBSの『大岡越前』に登場した吉宗の少年時代と考えたほうがいいだろう。『大岡越前』の吉宗は『暴れん坊将軍』の吉宗と同様、紀州時代の外出癖が江戸でも抜けず、将軍になってからも千代田の城を出て市中を歩いていた。『暴れん坊将軍』の忠相は吉宗の「徳田新之助」としての行動を前提にして職務をおこなっていたが、これと対照的に『大岡越前』での吉宗の外出はトラブルを生むばかりで、大岡忠相にとっては「悩みの種」以外の何物でもなかった。TBS『大岡越前』で水戸藩がどういう位置づけだったかよくわからないが、大岡忠相が吉宗の外出癖に悩んでいたとすると、その原因は吉宗が少年時代に紀州で出会った水戸光圀にあるとも言えよう。

テレビ朝日の時代劇の場合、吉宗の隠密行動には家光の忍び旅という前例があり、田沼時代になると吉宗の後輩である紀州藩主・徳川治貞が尾張藩主・宗睦とともに忍び旅をすることで繰り返されている。吉宗には尾張との間に確執があったが、田沼時代には紀州と尾張は和解していたようである。宗春が吉宗と一対一で勝負するほど将軍になろうとしたのに、宗睦が将軍職を拒否したのも不思議な話ではある。しかし宗春が目指したのは経済活性化で、吉宗の倹約令に反対したものだった。田沼政治は尾張宗春の政治に近いところがあり、宗睦が将軍になる必要はなかったのかも知れない。

水戸斉昭の息子・慶喜が将軍になったことで、水戸と紀州からは将軍が出ても尾張からは出なかったという結果になった。


参照
一般時代劇vs必殺シリーズ(2010年9月~)