一筆啓上、市松と星一徹から考える教育論

飛雄馬は1968年秋から1969年春まで「野球人形からの脱却」を目指して苦悩していた。1970年正月にオズマの帰国を見送ったときには飛雄馬は「おれももう野球じゃないつもりだ」と言っていた。だが、本当に飛雄馬が「一徹の作品」でなくなったのは『新』の時代だったかも知れない。

1968年12月、星飛雄馬は巨人軍宿舎でクリスマスパーティーを企画し、伴、明子、阪神の花形、大洋の左門を招待し、なぜか伴以外の巨人選手を招かなかった。招待された4人は缺席。
花形は「クリスマスケーキを食べにどうして巨人軍宿舎まで行かなきゃならないんだ」と同僚に語っており、左門は妹・弟たちとのクリスマスが先約だったのでそれを優先。また、左門は星飛雄馬に対して心を鬼にしていた。

この会場には、まず巨人の先輩がやってきて、花形と左門が星に宛てた葉書を届けて、すぐに去って行った。この先輩はパーティーに参加しなかったようだ。ここで飛雄馬がこの先輩を誘えば話は違ったかも知れない。次に明子からの電報を届けにきたオジサンもいた。こういう高齢者はクリスマスパーティーなど趣味に合わなかっただろう。

この「一人ぼっちのクリスマス」から8年半経過した1977年球宴前、ヤクルトに入団していた花形は自宅で誕生日パーティーを開き、これには星飛雄馬と左門、さらに星一徹も参加している。
花形のほうが社交性があるのか、あるいは星飛雄馬が8年間で社交性を身に付けたか、いずれかであろう。

1976年に右腕投手となってマウンドに戻った飛雄馬はすでに一徹の「作品」ではなかった。
1958年に少年飛雄馬が王貞治と対戦してから1975年の「野球人間ドック」まで実に17年の歳月が流れていた。飛雄馬が一徹による「野球人形」でなくなるまでそれだけかかったか。
1958年生まれの原辰徳は1975年度で高2、1976年度で高3だったはずだ。

1969年夏、星飛雄馬は川上監督からの登板命令にさからい、二軍落ちを志願。この時点では飛雄馬は監督命令より一徹の教えを優先しており、その意味ではこの時点ではまだ飛雄馬は一徹の作った「人形」だったわけだ。

前後一覧
2010年9月 9/11