『必殺仕置屋稼業』第10話
<>内は見えない部分の類推。
…<南町奉行所定>廻同心
中村主水 四十二才 身丈五尺八寸五分
中村家長女りつと養子縁組(辰乙弐年十月)
北町奉行所に出仕(辰乙参年四月)
同僚より昼行灯と呼ばれ…
もなし
辰乙六年四月南町奉行所に…
手柄まったく無し
りつ 三十五才 身丈五尺三寸
肉付き良くすこぶる健康なるも子供
産みたること無し
…<主>水をしりの下に敷くことおび…<ただし?>
…<せん>六十二才 身丈四尺三…<寸?>
…(元南町同心)…

まず主水の身長。
尺は30cmくらいなので5尺は150cm、1寸は0.1尺とすると8寸は約24cm。
1分は3mmとすると5分は1.5cm。5尺8寸5分は1m75cmくらいか。
りつの身長は5尺3寸だから1m65cmくらい。

次に重要な年号だが、辰乙というのが干支としてはおかしい。

ただ、主水の年齢や「四年」「六年」という表記から、主水が中村家に養子に出てから北町奉行所の同心となり、さらに南町に移るまでの時間の経過がわかる。

辰乙2年10(~12)月?中村家養子縁組
辰乙3年4月北町奉行所出仕
辰乙6年4月南町奉行所出仕 42歳

『仕置屋』で主水が42歳で、『新仕事人』で43歳だと、主水が「仕置屋」として市松、印玄、おこう、捨三と組んだ時期から、「仕事人」として秀、勇次、加代、おりくと組んだ時期まで1年足らずということになる。
鳥居耀蔵が南町奉行になったのが1841年(天保12年)末の12月28日だが、年明けまで数日足らずであり、陽暦ではすでに年明け後の1842年2月8日であった。

まず、主水の異動が1841年の場合。
第10話の書類が書かれたのは主水が南町に異動した年だとする。

「辰乙弐年」→天保08年(1837年) 主水38歳 主水が中村家の婿養子に
「辰乙参年」→天保09年(1838年) 主水39歳 ┬『仕置人』(北町同心時代)
「辰乙四年」→天保10年(1839年) 主水40歳 │『からくり人』最終回
「辰乙五年」→天保11年(1840年) 主水41歳 ┘
「辰乙六年」→天保12年(1841年) 主水42歳 …『仕置屋』(南町同心)
「辰乙七年」→天保13年(1842年) 主水43歳 …『新仕事人』(『IV』→)『アヘン戦争』
「辰乙八年」→天保14年(1843年) 主水44歳 ┬『意外伝』(→『V』)
「辰乙九年」→天保15年(1844年) 主水45歳 ┘

主水が北町同心だったのは家斉大御所時代だったことになる。
『新仕事人』で主水43歳なのは1842年になる。『仕事人IV』のスペシャル版『仕事人アヘン戦争へ行く』では、1842年に主水が秀、勇次たちとともに香港へ行っている。
1800年で1歳、この年に生まれたとすると水戸斉昭と同い年。

次に主水の異動が1842年の場合。

「辰乙弐年」→天保09年(1838年) 主水39歳 主水が中村家の婿養子に
「辰乙参年」→天保10年(1839年) 主水40歳 ┬『仕置人』(北町同心時代)
「辰乙四年」→天保11年(1840年) 主水40歳 │
「辰乙五年」→天保12年(1841年) 主水41歳 ┘
「辰乙六年」→天保13年(1842年) 主水42歳 …『仕置屋』(『仕事人IV』→)『ア戦』
「辰乙七年」→天保14年(1843年) 主水43歳 ┐『新仕事人』
「辰乙八年」→天保15年(1844年) 主水44歳 ┴『意外伝』(→『V』)

この場合、主水の年齢を西暦の下2けたに合わせた「天保の主水」になるが、『アヘン戦争』が『新仕事人』の前になる難点がある。
この主水は『主水死す』の嘉永年間のときは49歳から51歳。
逆に文政年間にさかのぼると『春雨じゃ、悪人退治』のシーボルト事件のときは28歳から29歳、『仕事人2009』のときは21歳、『旋風編』でオランダ商館から表彰されたときは19歳だったことになり、若すぎる。文政年間の主水は前の代の別人と解釋すべきである。

ちなみに実際の干支はこうなる。

1839年(天保10年)…己亥
1840年(天保11年)…庚子
1841年(天保12年)…辛丑
1842年(天保13年)…壬寅
1843年(天保14年)…癸卯
1844年(天保15年)…甲辰

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