『ドカベン』で捕球した野手がスタンドに落ちた場合、アウトかHRか

土井垣が日本ハムファイターズに入ったとき、山田高2夏の甲子園大会はまだ終わっていなかった。決勝で通天閣高校と甲府学院が対戦したのは、土井垣のプロ入り後のことである。

土井垣が初打席でホームランを放ったとき、新聞記事にはそれまでの初打席ホームランの例があり、昭和54年(1979年)までのデータがあった。土井垣は尊敬する元野球選手として当時の日ハムの監督だった大沢親分のほか、西武ライオンズにいた野村克也の名前を挙げていた。ノムさんは1977年のシーズンまで南海に在籍、77年春のオープン戦でヤクルトの花形満にささやき作戦を仕掛けたが通用しなかった。78年のシーズンから野村は西武ライオンズに移っている。

しかし、この夏の甲子園の場合、土井垣監督指揮下の神奈川明訓は初戦で同じ関東勢である東京のブルートレイン学園と対戦。夏の甲子園大会では1978年から2006年まで第1戦は東西対決で、関東勢は西日本の高校と対戦したはずで、1978年や79年の夏の大会で神奈川と東京の高校が初戦からぶつかることはなかったはずである。

すると、神奈川明訓とBT学園の対戦は1977年までという可能性もある。作中の山田高1は1974年度だったので、それなら1975年夏が山田高2の夏だった可能性もある(豊福きこう氏は『水原勇気0勝3敗11S』でそう解釋していた)。
だが、そうなると土井垣が日ハムに入ったとき、野村克也がすでに西武に移っていた(夏であれば1978年以降)のがおかしい。

なお、この直前、山田高2の夏の予選の前後に殿馬が乗った飛行機がハイジャックに遭遇したが、アニメ『ドカベン』ではこの事件の解決寸前、飛行機が成田空港に着陸しており、成田空港は横浜球場と「同期」で、1978年から使用された。
そして『ドカベン プロ野球編』では山田が高2だったのは1993年度(93年4月から94年3月まで)である。山田高2春の土佐丸戦は1993年春、甲子園にラッキーゾーンは存在せず、捕球した野手がスタンドに落ちてもアウトだったはずだ。

山田太郎が高2春選抜、江川学院戦で5打席連続敬遠されたのは、これが最初に描かれた当時の作中では1977年か78年、79年のいずれかだっただろうが、『プロ編』の設定では1993年春。松井秀喜が1992年夏の甲子園で5打席連続敬遠されてから半年後に山田が同じ境遇に遭ったことになる。