『暴れん坊将軍』で松平健扮する吉宗は、ほとんどの場合、相手を素手で倒すか峰打ちで打つ。吉宗自身が敵を斬ることは、あるにはあるが、非常に少ない。
非常に悪い相手の場合だけ、吉宗がお庭番を制し、自ら斬ったこともあるし、雲切仁左衛門(雲霧仁左衛門がモデル)と一対一で勝負したこともある。これらは例外である。
立ち回りの最後で、一人残った悪人が刀を捨てて、「斬れ」と言っても吉宗は斬らない場合が多い。

『暴れん坊将軍』のクライマックスの立ち回りで、吉宗が刀を抜くと、まず顔の近くで刀を持ちかえる場面があり、刃の付け根の葵の御紋が見えるようになっている。
また、日本の時代劇をよく観ると、峰打ちの場合と刀で斬る場合、効果音が違う。
└→将軍家の「忍び(隠密行動)」による犠牲者

ところが、『暴れん坊将軍』の吉宗に関して、相手を斬り捨てていると断定している本が2冊ある。

まず、柳田理科雄氏は『空想科学読本3』(メディアファクトリー、2000年)でこう書いている。
巨大な瞳を凝らし、迫りくる彗星におびえる江戸っ子たち。だが運命の時は刻々と近づく。暴れん坊将軍はどう対処したのか?
すい星接近を機に、お家騒動と世直し宗教が勃興し、その収集に大活躍。もちろん自ら抜き身を振るい、悪人どもをバッタバッタと斬り捨てた。いや、あの……、そんなことしてる場合じゃないと思うんですケド。(238ページ)

さらに、大野敏明氏は『歴史ドラマの大ウソ』(産経新聞出版、2010年)でこう書いている。
テレビ朝日系の長寿番組に『暴れん坊将軍』がある。8代将軍、徳川吉宗が、「余の顔を見忘れたか」と啖呵を切り、悪い奴らをばったばったと斬り捨てる。(83ページ)

時代劇といえばチャンバラである。桃太郎侍も暴れん坊将軍も、正義の刃を振りかざし、悪い奴らをばったばったと斬り倒す。(134ページ)

これらは明らかに誤解である。
なお、『必殺仕事人中村主水の秘密』でも著者が『暴れん坊将軍』について「正義の味方がバッタバッタと斬っていく」としている。
└→日本の時代劇

『歴史ドラマの大ウソ』で大野氏は『暴れん坊将軍』を取り上げてはいるが、もっぱら、幕臣の多くが将軍の前では顔を伏せているが、スダレ(簾)が間にあることで将軍の顔を知らないこと(注釋)、あるいは刀を何度も振ると刃がぐらついてくることに触れているのみで、作品の内容について突っ込んだ指摘はしていない。
江戸時代に表札がなかったこと、「~藩」の名もほとんど使われていなかったことなども、『必殺仕事人』について触れた章で書いている。

内容面ではむしろ、柳田理科雄氏の『空想科学読本3』と円道祥之(~まさゆき)氏の『空想歴史読本』(1999年、メディアファクトリー)のほうが『歴史ドラマの~』よりも『暴れん坊将軍』の時代考証について細かく書かれてある。

柳田氏は『空想科学読本3』237~238ページ欄外で、『暴れん坊将軍』における西川如見が彗星の軌道を正確に算出したことについて驚いている。如見は1712年に『天文議論』を著し、1719年に吉宗に謁見しているが、その少し前、彗星の軌道についてはニュートンが放物線だと主張したのに対し、1705年にハリーが楕圓軌道説で反論。楕圓軌道説の正しさが立証されたのは1758年にハレー彗星が再接近してから。つまり『暴れん坊将軍』の如見は『天文議論』を出した年から7年前に出た楕圓説を正しいと看破していたことになるらしい(下注釋)。

また、円道氏は『空想歴史読本』でこの『暴れん坊将軍』に触れており、『科学読本3』の巻末の参考資料の欄にもこの『歴史読本』の名が紹介されている。
『暴れん坊将軍』の彗星の話では、悪人の背後に尾張藩主・徳川宗春(下注釋)がいたことから、円道氏は『歴史読本』でこの話の時代設定を宗春が尾張藩主の座に着いていた1730年代と推測しており、如見が吉宗と会ったのが1719年で、1724年(宗春が尾張藩主になる6年前)に如見が世を去っていることで「計算が合わない」としている。

なお、『暴れん坊将軍』では火消のめ組がいて、大岡忠相が南町奉行、徳川宗春が尾張藩主という設定が一貫しており、細かい時代設定がその時期からずれていても、この設定が優先されている傾向がある。
時代設定を推定すると宗春が尾張藩主になる前でも、ドラマでは宗春が藩主だったり、また、第9部最終回のように大岡忠相が寺社奉行になったあとの話のようであっても、ドラマでは忠相が南町奉行だったりする。
└→『暴れん坊将軍』のドラマでは吉宗が将軍になって何年経過しているのか

『空想科学読本3』では『必殺仕事人』を「必殺!仕事人」のように、不要な感嘆符を入れている誤りがある。『歴史ドラマの大ウソ』では「必殺仕事人」と記述してある。

前後一覧
2010年8月 8/27

関連語句
空想科学読本3 [1] [2] 空想科学読本 暴れん坊将軍 歴史ドラマの大ウソ [1] [2]


注釋
実際は大名、家老は将軍の顔を観ていない
吉宗が「余の顔を見忘れたか」と言っても普通なら誰も覚えていないというのは「史実」をもとにした話である。その「史実」の吉宗は別として、『暴れん坊将軍』の吉宗は江戸城で幕臣や他の御三家たちに話すとき、御簾を上げたままで、相手にも顔を上げさせて、互いに顔を観て話すようにしている。『暴れん坊将軍』における吉宗は将軍就任当時からこういう方針だったようである。
だからこの本のような指摘をするなら、大名などが将軍に謁見している場面を題材にして批評するのが一番適切であろう。
└→『暴れん坊将軍』の「余の顔を見忘れたか」という決め台詞について

楕圓説を正しいと看破
ハリーが彗星楕圓説を出した1705年に吉宗が紀伊藩主となった。この前、ハレー彗星は1682年に接近しており、当時は綱吉の治世で吉宗はまだ生まれていなかった。その次のハレー彗星接近は1759年(接近の年に関しては前後1年の誤差があっても仕方がない)。このとき、吉宗はすでに故人であり、吉宗の長男・家重の治世であった。柳田氏によると放物線軌道を描く彗星も存在するらしい。

尾張藩主・徳川宗春
『暴れん坊将軍』第9部における彗星に関する話では、宗春は登場しないが、「彗星は江戸に落ちる」という噂を流して江戸で爆發事件を起こし、吉宗を失墜させようとした悪い幕臣と天狗党一派が「尾張宗春公」「大納言様」のためにやっていると語っていた。
もし、当時の宗春が正式に藩主にはなっていなかったとすれば、第9部の彗星激突の話の舞台は1719年でも問題ないことになる。


参照
ハレー彗星【事項】【科学】
『暴れん坊将軍』の歴史観と世界観
一般時代劇vs必殺シリーズ(2010年8月~)