光圀と光貞の年齢

平幹二朗が紀伊藩主・徳川光貞を演じた『水戸黄門』第37部第23話では水戸綱條の息子・吉孚が誘拐される事件が起き、黒幕が光貞。この光貞は大納言であって、中納言・水戸光圀より身分が上であり、光圀は光貞を直接裁けない。劇中では一部の実行犯数名が処分されており、光圀が将軍・綱吉に言上したと思われる。第38部第9話で光圀に味方した公家も大納言であった。

この『水戸黄門』第37部最終話では1685年生まれの吉孚が14歳(おそらく数え年)の設定だったことから、時代設定は光貞が隠居した1698年と思われ、そうなると光貞が数え年で72歳、光圀が71歳だったときの話になる。

『水戸黄門』第38部第5話では光圀が光貞の光貞の四男・源六(のちの吉宗)と出会っている。源六は当初、水戸光圀をただの町人と思って、光圀に対し大きな態度をしていたが、終盤で水戸老公だとわかると態度を改め、光圀に対し平伏していた。光貞は光圀より身分が上だっただろうが、当時の源六の身分は光圀より下だったわけである。なお、第38部第5話では光貞はまだ紀伊藩主で、第9話で大納言の公家が広げた勅命の元号と干支(元禄丁丑)から西暦1697年、光貞隠居の前年の設定だとわかる。

吉宗が光圀とほぼ同じ権中納言になったのは、光圀が没して7年たった1707年、源六と光圀の出会いから約10年後であった。さらに9年たった1716年、吉宗は将軍になった。その2年後、1718年に水戸綱條が没している。
『暴れん坊将軍』第8部第10話「陰謀に巻き込まれた黄門様!?」で綱條が吉宗に平伏しており、ここで吉宗は水戸藩主より上の身分になっていたわけだ。
『水戸黄門』で源六と名乗っていた吉宗が光圀と出会ってからおよそ20年後のことだっただろう。

1627年 紀伊徳川家の光貞誕生
1628年 水戸徳川家の光圀誕生
1656年 水戸綱條誕生
1661年 光圀が水戸藩主に
1667年 光貞が紀伊藩主に
1684年 紀伊徳川家の源六(のちの吉宗)誕生
1685年 水戸徳川家の吉孚誕生
1690年 光圀が隠居、権中納言に。光貞は大納言に
1696年┬光圀が和歌山で源六(のちの吉宗)と出会う
1697年┘(『水戸黄門』第38部第5話)
1698年 光貞隠居
___ 14歳の吉孚失踪事件。綱條が光圀に助けを求める
___ (『水戸黄門』第37部第23話)
1700年 光圀没す
1705年 光貞没す。吉宗が紀伊藩主に
1707年 吉宗が権中納言に
1709年 綱吉没、甲府宰相・綱豊が6代将軍に(家宣)
1712年 家宣没、家継が将軍に
1716年┐吉宗が将軍に
___├綱條が江戸市中で吉宗と会う(『暴れん坊将軍』第8部第10話)
1718年┘綱條没す
1719年 吉宗が西川如見を招聘(『暴れん坊将軍』第9部第19話
1720年 間部詮房没す

源六は光貞の四男だったが、年齢差で言えば光貞の孫くらいの年齢だっただろう。
光貞は光圀と1歳違い。一方、綱條の息子・吉孚は吉宗と1歳違いである。

『暴れん坊将軍』第8部で綱條はどうも隠居の身だったようだが、調べると綱條は1718年没で藩主在職も1718年まで。在職中に没したとすると『暴れん坊将軍』の話は成立しない可能性がある。考えられるのは綱條が1718年に藩主の座を徳川宗堯に譲り、隠居として江戸を歩いて吉宗と会い、その年のうちに他界したということであった。
劇中、間部詮房と三浦伊賀守は幕政に戻るために綱條が邪魔だと思って何度か刺客を差し向け、誘拐して暗殺しようとして吉宗に阻まれていたが、何もしなければ1年も立たぬうちに綱條は天寿をまっとうしていたのだ。間部も三浦も余計なことをしたため、三浦伊賀守はお庭番に成敗され、間部の幕政復帰の夢は露と消えた。間部は2年後の1720年に没している。

綱條が藩主の時代、光圀が諸国を歩き回って予算を浪費していたとすると、水戸藩の財政は火の車だっただろう。綱條は『水戸黄門』では光貞から恨まれ、『暴れん坊将軍』では間部と三浦伊賀守から恨まれ、奇しくも光貞の息子である吉宗に救われた。
光圀の時代に水戸徳川家が「副将軍」などという実態のない肩書をひけらかし、幕政や各地の反省に観賞してきたことが、周りからの恨みを生んだのではなかろうか。

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2010年8月 8/25 8/26