山田太郎は1974年に神奈川明訓に入ったが、『プロ編』の設定では1992年入学になる。
『ドカベン』の明訓編から『大甲子園』、そして『プロ編』までの経緯は、1970年代半ば、80年前後、86年前後、91年前後、94年前後で5種類はある。
さらに明訓高2春選抜が1978年以前の可能性もあるので、山田太郎の明訓入学を1977年とする場合もありうる。さらに『大甲子園』では山田高3が1982年、1983年之場合もあるが、それをこの年表に書きいれると混乱するのでやめておく。

 

1978年まで「捕球した野手がスタンドに入った場合、アウト」というのは、あくまで『ドカベン』での説明である。
太字で書いたところは実際に作品で描かれたところで、その他の山田世代と明訓高校の経歴は前後からの推測によるものだ。

 

 

1974年 山田明訓入学、夏の甲子園で優勝(明訓編初期)
1975年 明訓、高2夏の甲子園で弁慶高校に敗れる(推定)
1976年 明訓、高3夏の甲子園準決勝で青田高校と再試合(推定)
1977年 3月、山田世代高校卒業、プロ入り(推定)

 

 

1978年 山田明訓入学、夏の甲子園で優勝(推定)
1979年 明訓、高2夏の甲子園で弁慶高校に敗れる(土井垣明訓編末期)
1980年 明訓、高3夏の甲子園準決勝で青田高校と再試合(推定)
1981年 3月、山田世代高校卒業、プロ入り(推定)

 

 

1983年 山田明訓入学、夏の甲子園で優勝(推定)
1984年 明訓、高2夏の甲子園で弁慶高校に敗れる(推定)
1985年 明訓、高3夏の甲子園準決勝で青田高校と再試合(『大甲子園』)
1986年 3月、山田世代高校卒業、プロ入り(推定)

 

 

1989年 山田神奈川明訓入学、夏の甲子園で優勝(推定)
1990年 神奈川明訓、高2夏の甲子園で弁慶高校に敗れる(推定)
1991年 高3夏の予選前に新潟明訓と練習試合(『新潟明訓対神奈川明訓』)
1992年 3月、山田世代高校卒業、プロ入り(推定)

 

 

1992年 山田神奈川明訓入学、夏の甲子園で優勝(推定)
1993年 明訓、高2夏の甲子園で弁慶高校に敗れる(推定)
1994年 高3春夏連覇、秋ドラフト指名(『ドカベンP編』)
1995年 3月、山田世代高校卒業、プロ入り(〃)

 

 

『プロ野球編』の山田太郎は1976年5月5日生まれ。同じく『プロ編』の岩鬼は1977年1月生まれ。
『大甲子園』ではメッツの岩田鉄五郎はまだ引退していなかったようだが、『野球狂の詩』から考えると1977年か遅くとも78年には岩田鉄五郎は引退していたようなので、そこだけ考えると山田高3は1976年ごろになる。
1978年に成田空港が開港しており、アニメで山田高2予選の前後には使われていた。
同じく1978年に使用開始となった横浜球場は『大甲子園』で高3の山田世代が夏の神奈川予選決勝を戦った会場となった。
山田高2春選抜開会決勝で、殿馬の打った本塁性の当たりを犬神が捕球、身体がラッキーゾーンに落下して本塁打となった。確か山田高2夏の東海戦でも山田の打球を雪村が捕り、スタンドに落下してサヨナラ本塁打。『スーパースターズ編』では1978年までこれで本塁打で、1979年からアウト。
『大甲子園』で室戸学習塾ナインが松田聖子や小泉今日子のヒット曲を歌っており、いずれも1983年の曲だった。松田聖子は1980年デビュー。小泉今日子は1982年デビュー。
『プロ野球編』の太郎が10歳になったのは1986年5月5日。バスの事故は春の新学期が始まる前の春休みだったので、当時の太郎は満9歳と10箇月前後。
『大甲子園』では明訓がりんご園農業高校に勝ったあと、明訓の使っていた練習場が阪急の練習場でもあり、日ハムの土井垣は後楽園球場で明訓×青田戦をテレビ観戦していた。
1988年春から東京ドーム開場。
1988年秋から1989年開幕まで、南海ホークスがダイエーホークスとなり、阪急ブレーブスがオリックスになる買収があった。
1992年から甲子園球場のラッキーゾーン撤去。『プロ編』の山田が明訓に入って甲子園に初出場したとき、甲子園にラッキーゾーンはなかったことになる。『ドカベン』無印から『大甲子園』まで、山田たちが1年から3年まで甲子園で試合をしていたとき、ラッキーゾーンは存在していた。
弁慶高校との試合ではスタンドに入りきれない観客がラッキーゾーンで観戦していた。
1997年、岩田鉄五郎と水原勇気が20年ぶりに現役復帰。すると引退したのは1977年か78年。
1998年、新潟明訓の小林幹英が広島に入り、夏の球宴で山田(西武)、岩鬼(ダイエー)、殿馬(オリックス)、里中(千葉ロッテ)と対戦した。

 

 

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2010年8月 8/21