アニメ『巨人の星』第125話「ズックのボール」

これを書き込んだ当時は「1塁」「2塁」と書いていたが、今では「一塁」「三塁」にしている。特に意味はない。何とか統一して書くべきだろうが、どうしても揺れが出てしまう。

GyaO!で「ズックのボール」を再放送していた。
嶋清一が出場した甲子園大会では球場に「全國中等野球大會」とあり、その下に縱書きの垂れ幕が2つあり、左が「國民精總動員」とあり、右は「アジヤ興せば世界は晴れる」とあった。
当時は「アジヤ」「ロシヤ」のように、国名で今、「イ段+ア」である部分はは「+ヤ」だったようだ。
しかし、あじあ号はどうか。当時は「あじや」、右から左に読む横書きでは「やじあ」ではなかったか。当時も表記が揺れていたのであろう。

ちなみにロシアは1917年にロシア革命、1922年にソ連が成立しており、1926年以降の昭和の時代には日本で「蘇聯」と呼んでいたのではなかろうか。もっともソ連解体後もソ連を「ロシア」と呼ぶ人がまだ一部いるので、逆に90年前にロシアがソ連になって数年間はソ連を「ロシア(ロシヤ)」と呼ぶ人も多かっただろう。

「ズックのボール」では戦争当時の白黒映像も入って、さながら戦争を語り継ぐ市民運動の映画のようであった。
飛雄馬が入団テストを受けたとき、一徹がスパイクを渡した場面で、アニメではまた昔ばなしが追加され、大リーグボール1号でオズマと対戦したあとに飛雄馬が入院していた時期には沢村栄治の話になった。飛雄馬が大LB2号のヒントをつかむ寸前に明子が川上監督の現役時代を語り、2号のヒントをつかんだあとにこの嶋清一物語。大LB2号が打たれたあと、長屋が解体されたときに一徹が春江の思い出を回想、さらに大リーグボール3号の時期には「正捕手への道〈吉原物語〉」。

飛雄馬がこの回想をしたとき、甲子園で活躍していた太田幸司は1952年の早生まれであり、プロ野球編で1951年度生まれである星飛雄馬と同学年になる。もし、星飛雄馬が孝行を中退していなければ、甲子園で太田幸司と対戦していた可能性もあったのだ。
しかもこの1969年夏に飛雄馬が編み出していた消える魔球は、太田幸司が近鉄の投手としてデビューした1970年春にはすでに打たれる寸前。飛雄馬はオープン戦で太田と対戦、同年の球宴でも太田と星が出場したが、70年春から球宴まで飛雄馬はほとんど登板しなかった。
そして1970年後半戦で星飛雄馬は左腕を破壊し、師走に失踪。

もし、星飛雄馬が川上監督の進言にしたがって、69年のシーズンを大LB1号で乗り切り、70年春から2号で活動していれば、もっと勝ち数を稼げただろう。

星飛雄馬が巨人の入団テストを受けたときも、一徹からズック製のスパイクをもらって、それを履いていたが、読んでいて「ズック」が何だかわからなかった。

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