┌のび太と山田太郎年齢変遷(1980年代)
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1982年
「竜宮城の八日間」でのび太の少年時代は1982年。この年で10歳だったとして1972年生まれ。
『大甲子園』で描かれた中西球道の奪三振記録は1982年または1983年である。
山田が1982年で18歳だとすると1964年生まれ。てんコミ『ドラえもん』第2巻「ぼくの生まれた日」ののび太と同じ昭和39年生まれになる。
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1982年
「竜宮城の八日間」でのび太の少年時代は1982年。この年で10歳だったとして1972年生まれ。
『大甲子園』で描かれた中西球道の奪三振記録は1982年または1983年である。
山田が1982年で18歳だとすると1964年生まれ。てんコミ『ドラえもん』第2巻「ぼくの生まれた日」ののび太と同じ昭和39年生まれになる。
1983年
山田が1983年で18歳であれば1965年生まれ。1975年で10歳である。
山田が1983年で18歳であれば1965年生まれ。1975年で10歳である。
1984年
「スパルタ式にが手こくふく錠」の話では、ネズミ年(鼠年、子年)の正月にドラえもんが「今年はろくな年にならない」とおびえていた。原作では1984年である。のび太が1984年で10歳なら1974年生まれ(1984年正月で10歳なら1973年生まれ)。
明訓×室戸学習塾戦で室戸学習塾の面々が歌った「艶姿ナミダ娘」と「瞳はダイアモンド」は1983年秋の曲のようであるから、高校生が夏に歌うとしたら1984年以降。
1984年で山田が18歳であれば1966年生まれである。
「スパルタ式にが手こくふく錠」の話では、ネズミ年(鼠年、子年)の正月にドラえもんが「今年はろくな年にならない」とおびえていた。原作では1984年である。のび太が1984年で10歳なら1974年生まれ(1984年正月で10歳なら1973年生まれ)。
明訓×室戸学習塾戦で室戸学習塾の面々が歌った「艶姿ナミダ娘」と「瞳はダイアモンド」は1983年秋の曲のようであるから、高校生が夏に歌うとしたら1984年以降。
1984年で山田が18歳であれば1966年生まれである。
これから7年後、1991年に新潟明訓と試合をした山田太郎は1973年5月生まれ。対戦した新潟明訓の小林幹英は1974年の早生まれ。1983年10月に生まれたイチローと同学年だ。
1985年
「ハリーのしっぽ」はハレー彗星接近の前年、1985年でのび太が小学生だったときの話。1985年でのび太が10歳であれば1975年生まれ。「ツチノコ見つけた!」の雑誌初出版でジャイアンがツチノコを見つけた年に「ハリー~」ののび太が生まれたことになる。
『大甲子園』では明訓×青田戦で岩鬼が昭和60年時のプロ野球選手のまねをしていた。山田が1985年で18歳であれば1967年生まれ、岩鬼は1985年で17歳であれば1968年生まれ。
「ハリーのしっぽ」はハレー彗星接近の前年、1985年でのび太が小学生だったときの話。1985年でのび太が10歳であれば1975年生まれ。「ツチノコ見つけた!」の雑誌初出版でジャイアンがツチノコを見つけた年に「ハリー~」ののび太が生まれたことになる。
『大甲子園』では明訓×青田戦で岩鬼が昭和60年時のプロ野球選手のまねをしていた。山田が1985年で18歳であれば1967年生まれ、岩鬼は1985年で17歳であれば1968年生まれ。