中村主水と仕事人、シーボルト事件(文化・文政)
仕置人、仕事人中村主水と同世代(1)(2)、(3) 『2007』『2009』シーボルト事件(1)(2)年表


江戸時代後期(文化・文政~天保~幕末)で主水が少なくとも3種類いたと假定し、「文化・文政の中村主水」は西暦1820年(文政3年)で40歳、「天保~弘化~嘉永の主水」は1840年(天保11年)で40歳、「幕末の主水」は1860年(万延元年)で40歳とすると、「文化・文政の主水」は1881年で1歳(数え年なので1歳の年が誕生年)、「天保の主水」は1801年で1歳、「幕末の主水」は1821年で1歳になる。

1800年ごろに生まれた人物
1800年ごろに生まれた人物は「天保~弘化~嘉永の主水」と同世代である。

大塩平八郎と遠山金四郎が生まれた1793年は大黒屋光太夫帰国の翌年で日露会談がおこなわれていた時期。また、1893年にはマリー・アントワネットが処刑された。その翌年、水野忠邦と千葉周作とペリーが生まれた1794年はダントンが処刑された年。鳥居耀蔵とシーボルトが生まれた1796年にはエカテリーナIIと庄蔵とキリール・ラックスマンが没している。安藤広重が生まれた1897年の翌年に当たる1798年に光太夫の仲間・磯吉が帰郷しており、同じ年の夏に松平定信が木之内左衛門(=小杉十五郎)を護衛に雇った。

1800年には水戸斉昭が生まれた。
遠山景元は1793年に生まれたらしいので、遠山景元は水戸斉昭より7歳年上であった。

1800年には伊能忠敬が蝦夷を測量。1804年に高野長英とハリスが生まれ、1805年に光太夫が大槻玄沢から新蔵と庄蔵のその後の報告を聴いた。1808年に間宮林蔵が樺太を探検し、1809年に島津斉彬が生まれ、1810年に新蔵が没した。1811年に同心・暁蘭之介の上司だった北町奉行・小田切土佐守が没した。その7年後の1818年が文政元年。北町奉行所同心・中村主水が「仕置人」稼業を始めたのはそのころであろう。
もっとも、『旋風編』で主水が銀平に言った台詞から推測すると、主水が「仕置人」だったのは1811年より前だった可能性もある。
この時代に30歳を過ぎて裏稼業をしていた主水は「文化・文政の主水」であり、「[天保~弘化~嘉永の主水」はまた20歳に達していない青年で、「幕末の主水」は1820年ごろに生まれたばかりだったと考えていいだろう。

文化・文政の主水は『必殺仕事人2007』から『2009』かけての作品では1820年代初めに書庫番と自身番での勤務が確認できるが、その後、『仕事人2010』で西へ去って行った。しかし1828年と翌1829年のシーボルト事件では主水は江戸に戻っていた。ここから「文政の主水」は2種類いたことになるか。

もっと細かく観ると「天保~弘化~嘉永の主水」も2種類必要である。1830年代の主水と1840年代の主水の2種類が必要だ。
1830年代の場合、1835年のハレー彗星接近(『激闘編』)、1837年から1841年までの家斉大御所時代(『春日野局』)、主水は仕事人(しゴトにん)であった。1841年、家斉が没したとき(『風雲竜虎編』)の主水は1830年代の主水になる。
1840年代になると1841年の鳥居耀蔵就任当時、主水は仕置人(しオキにん)または仕置屋だった可能性がある(『仕置屋』)し、仕事人だった可能性もある(『江戸警察』)。
天保の改革の時代(『江戸警察』『アヘン戦争』『意外伝』)、そして1849年の北斎死没のとき(『主水死す』)の主水は1840年代の主水になる。1851年、水野忠邦を暗殺した中村主水は1840年代の主水である。
1853年以降の仕留人の主水は幕末の主水で、推定1820年前後に生まれたことになる、これまた別人。

なお、作品の数だけ中村主水がいたと假定すると、主水の年齢は、主水を演じたときの藤田まことの年齢と同じか、5歳くらい年下になる。