『ドカベン』の山田太郎が高1春のとき、1974年であった。すると1984年で26歳、85年で27歳になってしまうが、『大甲子園』では山田世代は1985年前後で高3になる。

 

1954年 藤村甲子園誕生
1967年 『大甲子園』の山田太郎誕生
1968年 『大甲子園』の岩鬼正美誕生
1974年 藤村甲子園が長嶋茂雄と対戦
1976年 『ドカベン・プロ野球編』の山田太郎誕生
___ 江夏が阪神から南海へ移籍
1976~1977年 西友高校が南海ファン。南海に江夏と野村在籍か
1977年 『ドカベン・プロ野球編』の岩鬼正美誕生
1978年 横浜球場完成(『大甲子園』神奈川予選決勝の会場)
___ このシーズンから野村が西武へ
1979年 明訓が弁慶高校に敗れる(山田高2夏)
1982年 中西球道奪三振記録
1983年 『ドカベン・プロ野球編』の山田と岩鬼が小学校に入学
___ 中西球道奪三振記録
1984年 『ドカベン・プロ野球編』の山田と岩鬼が小学2年生に進級
1985年 『ドカベン・プロ野球編』の山田と岩鬼が小学3年生に進級
___ 『大甲子園』の岩鬼(高3)が昭和60年時の選手のまね
1986年 『ドカベン・プロ野球編』の山田と岩鬼が小学4年生に進級
1991年 新潟明訓と神奈川明訓の対戦(山田と岩鬼は高3)
1992年 『ドカベン・プロ野球編』の山田が明訓高校に入学

 

『男どアホウ甲子園』の藤村甲子園は1954年生まれなので、1984年で30歳、85年で31歳。
『大甲子園』で球二、球三は高校3年だったようである(『一球さん』でもこの双子は高3だったように見えるがここでは深く考えない)。すると藤村甲子園が30歳前後のとき、弟は18歳前後だったことになり、年齢差は12歳くらい。藤村甲子園が高校生だった16~18歳のとき、球二と球三は4歳か6歳だったことになる。

 

一方、『一球さん』で巨人学園が南波高校と対戦したのは、その前の西東京大会に出場した友西高校のナインが名乗った「南海ホークスの選手名」から推察すると、江夏が阪神から南海に移籍したあとで、野村が南海から西武に移る前なので、どう考えても1978年から1977年まで。
1974年に明訓に入った初期山田世代は1976~77年はとっくにプロ入りだが、実際の明訓編では山田太郎は高1秋の県大会と関東大会をへて高2春選抜から夏の予選までの時期であった。

 

1976~77年当時、藤村甲子園は22~23歳(誕生日前まで含むと21~23歳)。『一球さん』で南波と巨人学園の試合を観戦していた藤村甲子園はこの年齢だったと思われる。

 

また、『大甲子園』には『野球狂の詩』の岩田鉄五郎と五利監督、水原勇気も登場し、記者が言った台詞では国立玉一郎や火浦健も現役だった節がある。ただ、『野球狂の詩』では岩田鉄五郎と水原勇気が引退して20年たった時代が西暦1997年で、すると鉄五郎と勇気の引退は1977年か遅くとも1978年。
こうなると、豊福きこう氏が初期の野球データ主義の本で假定したように、『大甲子園』の山田高3は1976年という設定がふさわしいことになる。しかし、これでは神奈川予選での横浜球場の使用が説明できないし、室戸学習塾のメンバーが松田聖子や小泉今日子のヒット曲を知っていたことも説明がつかなくなる。