普通なら「水戸のちりめん問屋」とでも名乗るのが一番自然のはずだが、それでは水戸光圀とばれそうだから「越後」にしているのかも知れない。

それでも、東野英治郎が水戸光圀を演じていたとき、光圀のそっくりさん(東野氏の2役)でまさしく「越後のちりめん問屋の隠居・光(右)衛門」が登場したことがある。
第4部、長岡での話で、オープニングの表示は「光衛門」だった。

弥七(当時は中谷一郎)も最初は光圀と勘違いしたくらいで、また、劇中、この光(右)衛門はそうとう意地悪な商人で、地元で評判が悪く、光圀一行は現地についたら、どこの宿にも泊まれず、宿でない建物に身をひそめていたと思う(確か時代劇でよく隠れ家に使われる寺の中の小さい建物のような場所で、第40部の第14話、富山の話で木内晶子扮する剣士の姿をした茜が潜んでいた小屋のような場所)。
よくある偽黄門ネタだが、オリジナル光(右)衛門にしてみれば水戸光圀こそ自分の名を勝手に使っているニセモノであろう。

それなら光圀は越後の隠居になりすますのをやめればいいのに、どうもその様子はない。

第40部で光圀(里見浩太朗)は東北、北陸を旅しており、第13話の新潟、出雲崎ではさすがに「ちりめん問屋」とは名乗ってはいなかったが、光圀は廻船問屋潮屋の主・増五郎(渡辺哲)に「私がかつて越後で商いをしていたとき」などと話しており、相手は普通に聴いていたが、下手すると「こんなじいさん越後で店やってたかな」などと疑問に思っていたかも知れない。
なお、「水戸黄門」では主演俳優が代わるたびに高松でも鶴岡でも同じ場所を何度も訪れているが、今の里見浩太朗の光圀が越後に来たときは、「本物」の町人・光右衛門がいたという話にはなっていないようだ。

また、時代劇では北陸の人も水戸や江戸の人も武士は武士、町人は町人で同じようなことばで話すが、今より方言差が大きかったであろう江戸時代に関東人が安易に北陸の人に化けるのは危なかったのでは? 越後の人が水戸老公を同郷と勘違いしてお国言葉で話しかけたらどうなったか。老公は隠れて「越後方言会話帳」でも持参していたのか?『大日本史』より方言学の本でも書いたほうがよかったはず。

結局、たとえフィクションであっても将軍家が勝手な偽名を名乗ってあちこち歩き回ること自体、無理な話だということ。

そもそもドラマの光圀の旅は手形に嘘の名前、嘘の肩書が書いてる意味で公文書偽造であり、もし、実際に今の日本で首都圏の元知事がこんな旅をしたら税金の無駄遣い、他の地方政治への干渉、越権行為として大問題になるだろう。

なお、『暴れん坊将軍』第8部第10話で徳川綱條が『水戸黄門漫遊記』から影響を受け、光圀のように「スケさん、カクさん」のお供二人を連れて、町人姿で江戸の町を歩く話が作られた。劇中、徳田新之助として町を歩いていた吉宗が綱條と出会い、め組の面々も周りにいた。そこで綱條は「常陸の木綿問屋の隠居」と名乗っていたようである。常陸は茨城県で水戸のある地域名だから、越後よりは嘘がばれにくい。

『水戸黄門』第38部第5話で光圀が紀州を訪れ、当時、源六と名乗っていた吉宗と出会う話がある。第38部第9話の時代設定は元禄丁丑の年、1697年になるので、史実ではすでに元禄から頼方または新之助に改名していた時期である。

綱條は『水戸黄門』でもよく登場するが、吉宗が将軍になった1716年から2年後、1718年に没している。
『暴れん坊将軍』の吉宗が江戸で綱條と出会ったのは、『水戸黄門』の源六が紀州で光圀と出会ってから20年後のことだった。

なお、1697年、吉宗は江戸で将軍綱吉に謁見している。別に光圀が和歌山まで遠出せずとも、その気になれば江戸城内で光圀と吉宗が会う機会もあったわけだ。

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