『八百八町夢日記』の榊原忠之は1766年生まれ。
1832年に鼠小僧を捕縛、処刑した年で数え年67歳である。

 

忠之が没したのは大塩平八郎の乱があった1837年。
この年に家斉が将軍の座を家慶に譲って大御所となっている。

 

『八百八町夢日記』での忠之は「ゆめのすけ」を名乗っていた。
最終回を録画した物を確認すると、第2シリーズのサブタイトル「夢之介最大の危機」では「夢之介」のようだ。

 

『八百八町夢日記』の榊原忠之は捕り物のたびに真剣で相手を斬っている。
研ぎに出すだけでも大変だし、相手をすべて斬る必要があるのだろうか。

 

『遠山の金さん』の遠山金四郎は丸腰で敵のところに行き、最初は素手で戦い、途中から相手に刀を奪って峰打ちで戦う。この場合、相手の刀がもろくて折れる危険性もあった。そういう展開はなかったが、毎回、あのような方法で容疑者を逮捕していたのでは危険である。

 

金四郎の立ち回りのあとに決まって北町奉行所の捕り方が来る。それなら初めから捕り方と一緒に乗り込むほうが安全だ。

 

『江戸を斬る』では遠山金四郎が北町奉行になった時代にも鼠小僧が出現していたらしい。
すると、1832年に榊原忠之が次郎吉をひそかに生かし、密偵とした結果、鼠小僧が1840年以降も生存していたということになる。
www.cal-net.co.jp/edo/index.html

 

金四郎が南町奉行になった1845年以降は女鼠小僧が出現していた。

 

補足
榊原が北町奉行だった時代は家斉の治世の後期、文化・文政から天保初期であるが、この時期には一色由良之助が闇奉行となり、松平右近も偽名を名乗って市中で生活、家斉のむすめ・照姫もおそらくは大御所時代に隠密行動をしていた。
「夢之介最大の危機」のビデオを観ると、榊原が次郎吉を生かしていたことはもとより、浪人に化けて市中を歩いていたことも公儀にばれたらお役御免だったらしい。この回の悪党は初めから夢之介の正体を知っていた。このような手法はやはり「反則」であるが、10年後に遠山景元がまねして、しかも浪人でなく町人に化けることが多くなった意味では、奉行の隠密行動はエスカレートしたと言える。
しかし、将軍家や奉行の隠密行動は1853年以降の幕末になると記録が見当たらない。

 

榊原は1837年没。家斉が家慶に将軍の座を譲った年で、大塩平八郎の乱もこの年に起きた。
『八丁堀の七人』は大塩の乱の直後の話のようで、最後には七人が悪政に抗議して丸腰で江戸城に乗りこんでいったらしい。これが1841年の家斉没年より前なら将軍は家慶でも家斉大御所時代である。
家斉の治世はどんなものだったか、悪政だったか否か作品によって微妙に異なる。

 

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09年7/6 11/20