┌将軍と水戸藩主と江戸の町奉行比較
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____1680~1690~1700~1705~1716~1730~~~1840~1841~
将軍__綱吉__________吉宗______家慶(1837年から将軍)
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______________┌─┘________________
御三家_光圀、光貞、綱條、吉宗┘→綱條_宗春___斉昭_______
____┌───→┘__↑
____綱條、吉宗 ───┘____________________
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町奉行_____________大岡忠相____遠山景元_鳥居耀蔵
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作品___『水戸黄門』_____『暴れん坊将軍』__『遠山の金さん』__
_______________『大岡越前』_____________
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____1680~1690~1700~1705~1716~1730~~~1840~1841~
将軍__綱吉__________吉宗______家慶(1837年から将軍)
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御三家_光圀、光貞、綱條、吉宗┘→綱條_宗春___斉昭_______
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____綱條、吉宗 ───┘____________________
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町奉行_____________大岡忠相____遠山景元_鳥居耀蔵
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作品___『水戸黄門』_____『暴れん坊将軍』__『遠山の金さん』__
_______________『大岡越前』_____________
「水戸黄門と暴れん坊将軍はどちらが身分が上か」という質問は正確に答えにくい。
徳川光圀は将軍家と言っても御三家止まりで、吉宗は御三家から将軍に上り詰めたので、最終的には吉宗が上である。しかし、吉宗が将軍になったのは光圀の死後であった。
もともと、将軍と御三家を比較するなら、光圀は家綱や綱吉の時代の人物であり、吉宗が将軍になったときの水戸藩主は綱條以降、また吉宗の治世の後半には尾張の宗春がいた。
したがって「綱吉と光圀」「吉宗と綱條」「吉宗と宗春」のそれぞれどちらが身分が上かを考えるべきであろう。
光圀が生きていたとき、吉宗はまだ源六、新之助、頼方と名乗っており、紀伊の藩主にもなっていなかった。吉宗は紀伊光貞の息子であり、将軍家の藩主としては光圀は光貞とほぼ対等の立場だったはずで、吉宗は光貞の子。もし、光圀が存命中に吉宗に会ったとしても、光圀のほうが身分が上だったわけだ。
徳川光圀は将軍家と言っても御三家止まりで、吉宗は御三家から将軍に上り詰めたので、最終的には吉宗が上である。しかし、吉宗が将軍になったのは光圀の死後であった。
もともと、将軍と御三家を比較するなら、光圀は家綱や綱吉の時代の人物であり、吉宗が将軍になったときの水戸藩主は綱條以降、また吉宗の治世の後半には尾張の宗春がいた。
したがって「綱吉と光圀」「吉宗と綱條」「吉宗と宗春」のそれぞれどちらが身分が上かを考えるべきであろう。
光圀が生きていたとき、吉宗はまだ源六、新之助、頼方と名乗っており、紀伊の藩主にもなっていなかった。吉宗は紀伊光貞の息子であり、将軍家の藩主としては光圀は光貞とほぼ対等の立場だったはずで、吉宗は光貞の子。もし、光圀が存命中に吉宗に会ったとしても、光圀のほうが身分が上だったわけだ。
光圀が1700年に没したのち、5年たって吉宗が紀伊藩主になった。ここで吉宗は光圀や綱條と対等の「徳川御三家の藩主」になったわけだ。
さらに11年経過し、1716年に吉宗は将軍となり、ここで光圀より上の身分になった。光圀が没して16年後のことであった。
さらに11年経過し、1716年に吉宗は将軍となり、ここで光圀より上の身分になった。光圀が没して16年後のことであった。
なお、「水戸黄門、暴れん坊将軍、大岡越前、遠山の金さん」を比較する場合、町奉行である大岡忠相と遠山金四郎が御三家より下の身分であることは明白。もっとも大岡忠相が吉宗の時代の奉行であるのに対し、景元は吉宗の治世の末期からさらに100年ほど経過した家慶の時代の奉行である
したがって、将軍と御三家と奉行を比較する場合、遠山景元の時代であれば、家慶と水戸斉昭、遠山景元、そして鳥居耀蔵を比較すべきである。
なお、遠山景元と鳥居耀蔵はどちらも奉行であり、時代劇では対等の立場として描かれる。
したがって、将軍と御三家と奉行を比較する場合、遠山景元の時代であれば、家慶と水戸斉昭、遠山景元、そして鳥居耀蔵を比較すべきである。
なお、遠山景元と鳥居耀蔵はどちらも奉行であり、時代劇では対等の立場として描かれる。
天保から幕末までの時期を描いた時代劇で「水戸老公」らしき人物が出てきたら、それは斉昭である。
もっとも生まれた年から見ると斉昭は1800年生まれ、遠山景元は1793年生まれらしいので、遠山のほうが年上であった。
もっとも生まれた年から見ると斉昭は1800年生まれ、遠山景元は1793年生まれらしいので、遠山のほうが年上であった。