1976年5月5日、山田太郎誕生(『俵と白球』)

『ドカベン・プロ野球編』の山田太郎は1976年5月5日生まれ。

『俵と白球』から推定すると『プロ野球編』の太郎は1979年5月5日で3歳、1980年5月5日で4歳、翌81年5月5日で5歳。
『ドカベン』本編ではどうだったか。
山田高2夏、明訓が弁慶高校に敗れた試合と土井垣の日ハム入団が少年チャンピオン・コミックス第40巻に収録されており、これの初刊は1979年(昭和54年)12月10日。
次の第41巻は初刊が1980年(昭和55年)2月25日で、冒頭で明訓野球部に太平監督が就任し、土井垣が初HR、負傷していた武蔵坊が復活し、東海高校の風のまた三郎が出現するまで描かれている。

一方、『俵と白球』で1976年5月5日に生まれた『プロ野球編』太郎のほうは、1983年4月に小学校に入学、野球は4年生からなので体作りのため相撲部に入ったのがこの時期で、次の年、1984年4月に2年生になり、85年4月に3年生、86年4月で4年生になった
『俵と白球』ではこの学年まで描かれている。

あの忌まわしいバスの事故は太郎が10歳になる直前の春休み、『俵と白球』の設定にしたがえば、1986年に起きたことになる。
作品では太郎が当時10歳だったことになっているが、厳密には9歳10箇月または11箇月である。
また、少年チャンピオン・コミックス『ドカベン・スーパースターズ編』第29巻に収録された里中とサチ子の結婚披露宴でのサチ子のスピーチによると、サチ子は2歳で両親と死別したことになっている。
もし、サチ子が1986年で2歳なら1984年生まれである。

さて、この時期、『ドカベン』本編は『大甲子園』の時代であった。
1983年に『大甲子園』スタート。
室戸学習塾の面々が松田聖子や小泉今日子の1983年ごろにヒット曲を歌っていたし、青田高校の中西球道の奪三振記録は1982年または1983年に達成された。
明訓の岩鬼は青田との試合で昭和60年(1985年)当時の野球選手のまねをしていた。

『俵と白球』と『ドカベン・プロ野球編』の山田太郎は1989年3月に小学校を卒業し、89年4月から中学生。

なお、サチ子が1984年生まれとすると、4月2日以降に生まれたのであれば1991年度には7歳になり、小学1年生になる年度である。この場合、太郎とサチ子は8歳差になる(インターネットでは9歳差という記述が多い)。
└→1990年代の山田太郎(『俵と白球』から推定)

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09年10/26