ガリバー来日、将軍綱吉→家宣→家継から吉宗へ 

TBS『水戸黄門』では、綱吉の時代に光圀が若き日の吉宗・源六(のちの新之助、吉宗)と会う話がある。元禄時代に源六とは覚えやすい名だ。だが、この吉宗ものちに光圀のように偽名を名乗って町を歩き回るようになる。もとは家光が上洛のときにやっていたことだ。
└→徳川吉宗は光圀に会っていたかどうかという問題について追加

 

2008年12月8日に放送された『ヤッターマン』の「決戦エド・はるみ 江戸でグーだコロン!」ではヤッターマン1号、2号とドロンボーが江戸時代の日本に行った模様。時代は生類憐みの令が施行されていた元禄時代。
└→元禄時代の日本にヤッターマンとドロンボーが出現

 

1699年5月4日、ガリバー(Gulliver)の乗った船が東インド地方を目指してブリストル(Bristol)を出航、難破して小人の国(Lilliput)に漂着した。

 

1700年末に光圀が没した直後、1701年、松の廊下の刃傷事件が起きた。忠臣蔵事件のときに光圀が生きていたら遺恨も何とか収まっただろうが、いつまでも光圀一人に頼る江戸幕府は慢性の人材不足だったと言える。
光圀の死後、日本では将軍や将軍家の親戚、藩主、奉行が偽名を名乗って市内を探索し、それで初めて事件が解決するのが慣例となってしまい、非公式の手段に大衆が酔う風土が定着した。
└→ガリバー来日、将軍綱吉→家宣→家継から吉宗へ

 

1702年、中町奉行ができた。1986年11月の『歴史読本スペシャル』によると、この1702年に丹羽遠江守長守が中町奉行に就任したらしいが、Wikipedia 町奉行>江戸町奉行の一覧>中町奉行 では4代目である。1年のうちに3回も交代したのだろうか。中町奉行所は吉宗の時代、1719年まで存続した。1719年は吉宗が西川如見を江戸に招聘した年であった。

 

角川『日本史辞典』第二版(1974年)によると、『水戸黄門』で悪役になっている柳沢吉保が老中になったのは、光圀が没して6年たった1706年から1709年まで。

 

1708年、イタリア人宣教師が屋久島に来航
1708年、シチリア生まれのシドッチというイタリア人宣教師が屋久島に来航。
長崎奉行に捕らえられた。
新井白石がシドッチを尋問し、『西洋記聞』を書いた。

 

『ガリバー旅行記』でガリバーが日本に来たのは翌年、1709年である。

 

『西洋記聞』は公にされず、極秘に傳えられ、正式に刊行されたのは明治15年、1882年であった(井口朝生『徳川吉宗』より)。

 

 

前後一覧
2009年9/4

 

関連語句
綱吉 ガリバー(タイトル検索)
新井白石 [1] [2](内容検索)

参照
時代劇(2009年8月後半)