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┌家光と光圀と吉宗
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井口朝生(いぐちあさお)『徳川吉宗―物語と史蹟をたずねて』(成美文庫、1994年)の17ページによると徳川吉宗は1694年2月、11歳のとき、名を源六から新之助に改め、18~19ページによると、吉宗は1695年と1697年に江戸に来たことがあるらしい。
┌家光と光圀と吉宗
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井口朝生(いぐちあさお)『徳川吉宗―物語と史蹟をたずねて』(成美文庫、1994年)の17ページによると徳川吉宗は1694年2月、11歳のとき、名を源六から新之助に改め、18~19ページによると、吉宗は1695年と1697年に江戸に来たことがあるらしい。
1695年のときは吉宗(当時は新之助)は12歳で、從五位以下主税頭(ちからのかみ)に叙任(Y!辞書)された。
翌1696年4月、13歳の吉宗は将軍・綱吉に初めて謁見。
さらに翌年、1697年4月、綱吉が江戸赤坂の紀伊徳川家上屋敷を訪れ、光貞は息子二人・綱教(つなのり)と頼職(よりもと)を連れて接待。謁見のとき、新之助は別室で待たされていた。
翌1696年4月、13歳の吉宗は将軍・綱吉に初めて謁見。
さらに翌年、1697年4月、綱吉が江戸赤坂の紀伊徳川家上屋敷を訪れ、光貞は息子二人・綱教(つなのり)と頼職(よりもと)を連れて接待。謁見のとき、新之助は別室で待たされていた。
このとき、老中・大久保出羽守忠朝(ただとも)が「紀伊大納言殿は子福者(Y!辞書)がございます」と気を利かせ、綱吉が「いかにも主税頭をこれへ」と言って吉宗を前に呼び寄せた。
そして綱吉は越前国丹生(にう)群にある3万石の領地を14歳の吉宗に与えた。吉宗は直接には越前国の領地には行かず、紀伊家の役人が統治していたらしい。
吉宗が紀伊藩主となったのは1705年であった。
そして綱吉は越前国丹生(にう)群にある3万石の領地を14歳の吉宗に与えた。吉宗は直接には越前国の領地には行かず、紀伊家の役人が統治していたらしい。
吉宗が紀伊藩主となったのは1705年であった。
さて、2008年2月4日放送の『水戸黄門』第38部で光圀が近畿地方を訪れ、源六と名乗っていた吉宗と出会った話について、もう一度検証してみる。
www.tbs.co.jp/mito/mito38/1.html#l05
吉宗が源六と名乗っていたのは1694年で、この年、松尾芭蕉が没している。つまり、第40部と同様、1694年より前の話である。
実際には光圀はほとんど関東地方かその近辺を移動しただけであり、吉宗と会ったとすれば江戸城でであろう。吉宗が江戸城に始めて来たのが1695年だとすると、すでに芭蕉が没した1694年の翌年である。
しかも、このとき、吉宗は「新之助」になっていたとすると、ドラマでの光圀と吉宗の話は、このときではない(場所も違う)。
吉宗が源六と名乗っていたのは1694年で、この年、松尾芭蕉が没している。つまり、第40部と同様、1694年より前の話である。
実際には光圀はほとんど関東地方かその近辺を移動しただけであり、吉宗と会ったとすれば江戸城でであろう。吉宗が江戸城に始めて来たのが1695年だとすると、すでに芭蕉が没した1694年の翌年である。
しかも、このとき、吉宗は「新之助」になっていたとすると、ドラマでの光圀と吉宗の話は、このときではない(場所も違う)。
吉宗が将軍になったのは光圀が没して16年たった1716年。
将軍になる直前、1716年の4月30日、吉宗は江戸城に呼ばれ、そこで尾張の継友(つぐとも)、水戸の綱條(綱条、つなえだ)と会っている。綱條は光圀の甥であり養子である。
光圀没後16年、吉宗が綱條と江戸城で会ったことは確かなようだ。
└→光圀と吉宗についてさらに追加(『水戸黄門』と『暴れん坊将軍』の接点)
将軍になる直前、1716年の4月30日、吉宗は江戸城に呼ばれ、そこで尾張の継友(つぐとも)、水戸の綱條(綱条、つなえだ)と会っている。綱條は光圀の甥であり養子である。
光圀没後16年、吉宗が綱條と江戸城で会ったことは確かなようだ。
└→光圀と吉宗についてさらに追加(『水戸黄門』と『暴れん坊将軍』の接点)