幕末の中村主水の裏稼業変遷【弐】 

1853年の初めに主水が裏稼業を始めたと假定し、1853年後半から1854年の初めまで「仕留人」、1854年から「仕置屋」とし、その後、「仕事人」まで裏稼業の名称が毎年変化し、「仕事人」から名称の変更がなかったとすると、幕末における主水の裏稼業はこうなる。

1853_嘉永6__仕置人 主水が裏稼業を開始
_______仕留人 黒船来航
1854_安政元_仕留人 黒船再来
_______仕置屋
1855_____仕業人
1856_____仕業人
1857_____新仕置
1858_____仕事人 安政の大獄
1859_____↓__
1860_万延元_仕事人 桜田門外の変
1861_文久元_↓__
1863_____仕事人 清河八郎没

一方、文政や天保、弘化~嘉永時代と同様、この幕末でも主水が「仕事人」になってから数年間、裏稼業が続いており、時代によっては数年のブランクがある。では、その「数年後」に主水が裏稼業名を「仕事人」にしたとすると、「仕置人」はいつからか。1年づつさかのぼると、桜田門外の変の翌年からである。なお、「仕留人」は時代設定が最初の黒船来航に限定されているので、「仕置人」が1861年スタートであれば「仕置人」と「仕置屋」の間に「仕留人」は入らない。

1861_文久元_仕置人
1863_____仕置屋 清河八郎没
1863_____仕業人
1864_元治元_新仕置
1865_慶応元_商売人
1866_____仕事人 慶喜が将軍に
1867_____↓__
1868_慶応4__仕事人 鳥羽・伏見の戦い

しかし、1863年において主水は南町奉行所に長年勤めたことになっているので、1863年で「仕置屋」というのは考えにくい。1868年の鳥羽・伏見の戦いで佐々木只三郎を暗殺した主水は、1863年に清河八郎と組んだ主水でもあるので、このように桜田門外の変のあとから「初期主水」を始まった可能性は低い。

一応、一つの表にしてみるとこうなる。

1852_仕置人
1853_仕留人_仕置人
___↓___仕留人
1854_仕留人_仕留人
___仕置屋_仕置屋
1855_仕業人_仕業人
1856_新仕置_新仕置
1857_商売人_商売人
1858_仕事人_仕事人
1859_↓___↓__
1860_仕事人_仕事人
1861_↓___↓___仕置人
1862_↓___↓___仕置屋
1863_仕事人_仕事人_仕業人
1864_↓___↓___新仕置
1865_↓___↓___商売人
1866_仕事人_仕事人_仕事人 
1867_↓___↓___↓__
1868_仕事人_仕事人_仕事人 

ここで、主水の仲間・政が『大老殺し』と『横浜異人屋敷』では鍛冶屋だったのに、『ブラウン館』では花屋に「戻って」いることが重要になってくる。
└→幕末の中村主水の裏稼業変遷【参】