鳥居耀蔵就任前後の中村主水の裏稼業変遷【弐】 

このように主水の裏稼業スタートが鳥居の着任の前の年か、着任の年か、翌年かの違いが出てくる。
まとめるとこうなる。この場合、1849年の葛飾北斎没まで主水が「仕事人」を続けていた可能性も視野に入れる必要が出てくる。

1840_仕置人________ アヘン戦争(1842年まで)
1841_仕置屋_仕置人_仕置人 
___↓___仕置屋_↓__ 鳥居耀蔵が南町奉行に就任
1842_仕業人_仕業人_仕置屋 (仕事人・主水たちが香港で出張仕事)
1843_新仕置_新仕置_仕業人
1844_商売人_商売人_新仕置 (仕事人・主水たちが鳥居耀蔵を暗殺)
1845_仕事人_仕事人_商売人
1846_↓___↓___仕事人
1847_↓___↓___↓__
1848_↓___↓___↓__
1849_仕事人_仕事人_仕事人 葛飾北斎没
1850_↓___↓___↓__
1851_仕事人_仕事人_仕事人 水野忠邦没(主水爆發事故死?)
1852____________
1853_仕留人________ 黒船来航。主水が糸井貢、大吉らと組む
1854_仕留人________ 黒船再来。日米和親条約締結

鳥居失脚から北斎没まで5年。もし、主水が1849年に「仕事人」になったとすると、「仕置人」スタートは1844年になる。今度は『江戸警察』の主水と入れ替わりの可能性が高く、鳥居耀蔵を暗殺した主水と水野忠邦を暗殺した主水が「別人」になる。

1844_弘化元_仕置人
1845_____仕置屋
1846_____仕業人
1847_____新仕置
1848_嘉永元_商売人
1849_____仕事人 葛飾北斎没
1850_____↓__
1851_____仕事人 水野忠邦没(主水爆死?)
1852________
1853_____仕留人
1854_安政元_仕留人

しかし、北斎没から始まる『必殺!主水死す』では主水は同心としてベテラン、「仕事人」としてもベテランであり、「商売人」から「仕事人」になったばかりとは考えにくい。また、これは『主水死す』だけを独立したものとした解釋であり、他の作品との関連が薄い。主水の「仕置人」が1844年からで「仕事人」が1849年からとすると、その延長は1853年の黒船来航時だが、このときの主水は「仕留人」であり、2度目の裏稼業を初めて間もない時期であった。

まとめるとこうなる。一応、「1844年仕置人→1849年から仕事人」の場合も併記したが、それは作品での描写とは余り合わない。『主水死す』は長年、裏稼業をしてきた主水の末路を描いたものなので、「仕事人」になったのはやはり1844年以前であろう。
作成時のパソコン上の文字のサイズは「中(M)」である。

1836_仕置人
1837_仕置屋
1838_仕業人
1839_新仕置
1840_商売人_仕置人____________ アヘン戦争(1842年まで)
1841_仕事人_仕置屋_仕置人________ 鳥居耀蔵が南町奉行に就任
___↓___↓___仕置屋_仕置人____
1842_仕事人_仕業人_仕業人_仕置屋____ 主水たちが香港で出張仕事
1843_仕事人_新仕置_新仕置_仕業人____
1844_仕事人_商売人_商売人_仕事人_仕置人 主水たちが鳥居耀蔵を暗殺
1845_____仕事人_仕事人_↓___仕置屋
1846_____↓___↓___↓___仕業人
1847_____↓___↓___↓___新仕置
1848_____↓___↓___↓___商売人
1849_____仕事人_仕事人_仕事人_仕事人 葛飾北斎没
1850_____↓___↓___↓___↓__
1851_____仕事人_仕事人_仕事人_仕事人 水野忠邦没
___________________└→可能性は低い
1852____
1853_仕留人
1854_仕留人

ある意味、1830年から1844年までの天保時代は主水の裏稼業が最も「混乱」した時期ではなかろうか。天保時代だけでも主水がすべて同一人物だとすると、鳥居着任前後でも初期主水と後期主水が混在し、主水が複数の裏稼業のグループの間を行ったり来たりしていたことになる。
└→幕末の中村主水の裏稼業変遷

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2008年9/25
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