「プロポーズ作戦」のとき、のび助と玉子はそれぞれ何歳だったか 

てんコミ第6巻を観る限り、「この絵600万円」では昭和24年(1949年)が25年前なので、1974年でのび太10歳であろう。その場合、「地下鉄をつくっちゃえ」と同じ「1974年基準」が当てはまるので、のび助は1974年で36歳、1938年生まれである。

すると、1949年当時ののび助は11歳、小学5年生だったことになる。しかし、「この絵600万円」でのび太が出会ったのび助は学生服を着ており、中学生にも見えた。もちろん、小学校で制服を採用している学校もあるが、この話の最後のコマ(小間)で、のび助が玉子に「みなさい。ぼくが中学生にころかいた絵だ」と述べている。
つまり、「この絵600万円」ののび助は1949年当時、中学生であった。
1949年春で中学卒業なら、ほぼ1933年度生まれで、一番年長の場合で1933年4月2日生まれ。
1949年春で中学入学なら、ほぼ1936年度生まれ。一番若い場合で1937年4月1日生まれ。
1974年の師走で37歳以上になっているはずだ。

では、もし、これを「1970年基準」で考えるとどうなるか。
「1970年基準」ではのび助は1934年生まれで、1949年当時は15歳であり、中学3年生。学生服を着て、のび太より少し年上に見えたとしてもおかしくない。一方、11歳だったのは1945年当時である。「白ゆりのような女の子でのび助がこの年の6月、疎開先していたとき、女装していたのび太からチョコレートをもらった。とても絵の先生のところで絵を描く勉強などする場合ではなかったわけだ。

つまり、「この絵600万円」は1949年を25年前とした時代設定では「1974年基準」であるが、のび助が1949年で中学生とした点では「1970年基準」なのである。

さて、「ハリーのしっぽ」ではのび太10歳の時代が1985年であり、このとき、のび助が36歳であれば、「ハリーのしっぽ」ののび助は1949年生まれであり、「この絵~」の舞台となった過去は36年前、のび太の父親は赤ん坊だったことになる。
また、1982年をのび太10歳の「現在」とした「竜宮城の八日間」では、のび助は1946年生まれ。この時点でのび助が1945年に疎開を経験したという設定は成立しなくなっている。
もし、80年代になってものび助が戦争経験者であるとすれば、「終戦」の年に生まれたとしても1982年の段階で37歳、85年当時で40歳でなければならない。

一方、「地下鉄をつくっちゃえ」「ぼくの生まれた日」に登場した「1974年基準」ののび助は1938年生まれで、1945当時7歳。こののび助は1982年で44歳、1985年で47歳。のび助が36歳という設定にこだわらなければ、「ハリーのしっぽ」のときののび助が太平洋戦争経験者であれば、47歳だった(のび太誕生はのび助37歳のとき)という可能性もある。

ちなみに、「この絵600万円」でののび太の言によると、のび太の家と画家のアパートの間では1968年に住宅が取り壊されボウリング場になったらしい。
└→「白ゆり~」「この絵~」「地下鉄~」の掲載時期(『ド・ラ・カルト』より)

なお、『藤子・F・不二雄大全集』に収録されている「この絵~」では、のび太10歳の時代が1972年になり、のび助は2歳年上になって、1949年当時で14歳になる。
└→「この絵600万円」におけるのび助は何歳かII

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