宮崎県【地理】――星飛雄馬の自主トレと宮崎キャンプI 

1970年
飛雄馬は自主トレで伴を鍛えたが、伴の中日へのトレードは成立。飛雄馬は宮崎キャンプで調子が出ず。明子からの葉書で奮起。アニメでは沖医師と再会し、ONと勝負。
自主トレの期間、花形は六高山で雪玉打ち特訓。左門は九十九里浜で波打ち際特訓。中日の明石キャンプでは、一徹が消える魔球を実演し、続いて選手たちがサッカーボール打ち。

1971年
巨人は宮崎キャンプのあと、アメリカ遠征。原作の『侍ジャイアンツ』では番場蛮も参加し、マイアミビーチ、ベロビーチなどで試合。ウルフ・チーフと対戦。

1972年
川上G、自主トレで紅白戦。番場蛮は長嶋監督の紅軍、八幡太郎平は王監督の白軍。
番場は宮崎キャンプ、八幡は二軍で延岡キャンプ。

1973年(推定)
正月に星飛雄馬が日南海岸に出現。宮崎キャンプのとき、星飛雄馬が日向三高を臨時コーチ。
キャンプには番場蛮が参加。

『巨人の星外伝・それからの飛雄馬』によると、民宿「うなばら荘」で働いていた少女・陽子は「星投手が巨人に入団した年、はじめて宮崎キャンプにきたとき、青雲高校時代から大ファンだったので、せがんで写真撮影してもらったの」と述べている。しかし、これは陽子の事実誤認である。星飛雄馬が巨人に入団したのは67年秋で、最初の宮崎キャンプ参加は年明け後の68年、台湾キャンプ後のオープン戦の直前であった。この陽子は本当に「青雲高校時代から星投手のファン」だったのだろうか。
その年、日向三高は夏の甲子園で広島代表・呉一高を破り、準決勝に進出。
└→1973年――失踪中の星飛雄馬、王島大介の学年

原作『侍ジャイアンツ』の番場蛮は自主トレ期間にONを大回転魔球で打ち取り、キャンプでこれを磨き、ロッテとのOP戦にのぞんだ。OP戦では大回転とHJの二刀流を使った。
アニメの番場蛮は前年秋のドラフトで巨人に入り、73年春は自主トレでノーコンを改良、キャンプでは自宅謹慎のあと、アメリカ遠征で復帰。
ロッテとのOP戦で速球のコースを読まれ、速球からハイ・ジャンプ魔球に移る時期。
73年春のOP戦で対戦したロッテの監督は、原作とアニメどちらも金田正一。

1974年
番場蛮は前年の日本シリーズで編み出したハラキリ・シュートでONと対戦。

1976年
星飛雄馬がテスト生として宮崎キャンプに参加。スクリュー・スピン・スライディングを使用。テストに合格し、背番号3をもらう。

1977年
星飛雄馬は自主トレで不調に見えたが、実は大LB養成ギプス右投手用をつけていた。
飛雄馬が宮崎キャンプに参加。
巨人軍が青島(あおしま)のホテルに宿泊していたとき、飛雄馬は新聞記事で義兄・花形満のヤクルト入団を知る。このときの宮崎は異常寒波にみまわれたが、花形満がヤクルトに入団したので、飛雄馬は初めから全力投球。

1978年
星飛雄馬はハワイで特訓していたので、自主トレで身体ができ上がっていた。宮崎キャンプで長嶋監督に蜃気楼の魔球を披露。

1979年
春のキャンプ中、水木炎が乱入し、投球練習をしていた江川の球を打ち返す。長嶋監督が星飛雄馬を水木と勝負させる(『巨人のサムライ炎』)。

1979年
www.geocities.co.jp/Athlete/7545/newpage61.htm
└→これによると、1979年の巨人軍春季キャンプ地は、やはり、宮崎であった。
もっとも、Wikipedia 江川事件によると、江川の巨人入団は開幕後で、キャンプやOP戦には参加できなかったらしい。

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