PL学園2年、吉川大幾(だいき)が大阪大会5号HRを放ち、清原和博が2年生のときに記録した4本を超えたらしい。

 

今の高校2年は1992年4/2~93年4/1生まれ。
調べると吉川大幾は1992年8月21日生まれ。
1992年8月16日に星稜高校時代の松井秀喜が5打席連続敬遠された年度に生まれた世代だから、清原の高校球児時代を知らないであろう。

 

 

『大甲子園』の山田世代は、1985年で18歳とすれば清原世代。
一方、『ドカベン・プロ野球編』の山田世代は1992年当時、高校1年生で、神奈川代表となり、甲子園に初出場。
『プロ編』の山田は1985年夏のとき、まだ9歳、小学校3年生で、相撲で活躍していたはずである。

 

 

また、1991年に新潟明訓と対戦した山田は1992年3月に明訓高校を卒業し、92年4月の開幕からプロ入りしていたはずだ。

 

 

ちなみに、1977年当時の原作『ドラえもん』の「りっぱなパパになるぞ!」ではのび太と静香の間に生まれた子供・ノビスケが西暦2002年で1977年当時ののび太少年と同い年くらいだったから、のび太の息子・ノビスケが2002年の誕生日で10歳とすれば1992年生まれになる。

 

 

また、成海璃子も1992年生まれである。
本来、のび太の息子が高校生になっているはずの時代なのだ。

 

 

一部を除くと、夏の高校野球の地区予選は7月10日かそれを過ぎたときに始まり、7月末ごろに終わるようだ。
1991年、神奈川明訓と新潟明訓が戦ったのは7月7日で、新潟予選が7月13日から29日まで。神奈川予選もおおよそ、その時期だったとすると、山田世代高3夏の時代設定を一つに考えれば、神奈川明訓野球部を休部した里中が神奈川予選決勝で復帰し、白新を破ったころに、新潟明訓が甲子園の切符を手に入れたことになる。すると、少しさかのぼって、高3春の選抜のあと、里中が休部したのは7月8日からということになる。

 

 

1991年ごろには藤田巨人で、桑田真澄に代わって番場の甥が登板した。