のび太と山田太郎の「生まれた年」の比較I 

『ドラえもん』において山田太郎と似たような境遇になっているのが、のび太の母・玉子である。

玉子は原作では1948年(昭和23年)当時、まだ子供で、1959年(昭和34年)にのび助と婚約したことになっていたが、2007年8月17日のアニメでは昭和50年代(1980年前後)でまだ7歳くらいの子供だったことになっている。昭和50年代といえば、『コロコロコミック』が創刊され(昭和52年=1977年)、テレビ朝日のアニメがスタート(昭和54年=1979年)した時期である。2007年のアニメでは、このとき、のび太はまだ生まれていなかったわけだ。

この新たな設定に驚く人がいるとすれば、おそらく昭和50年代、あるいは西暦1980年代に『ドラえもん』を観て育った世代であろう。自分たちが『ドラえもん』を観始めた時代が、今の『ドラえもん』ではのび太のママの子供時代を描いた「過去」にされているというわけだ。

伊集院光との対談を収録した『球漫』によると、水島新司は『ドカベン』明訓編では時代設定の辻褄など考えず、試合をじっくり見せることを重視していたらしい。
山田が1974年に明訓入学という設定はすでに、明訓編の途中で崩壊している。例えば、山田が高2の夏、弁慶高校に敗れたとき、舞台は1979年夏。犬飼小次郎を迎えた南海の監督は広瀬。もし、山田が高2だったのが1975年であれば、野村監督だったはずだ。また、『大甲子園』で描かれた高3の夏は明らかに80年代である。

このように、明訓時代の山田世代が1974年から94年までのどの時代にも出現する性質を持っていたので、1991年の新潟明訓との対戦も実現したのである。
1991年当時、明訓編初期の山田は41歳でプロ選手としても引退して不思議ではない時期、『大甲子園』の山田は高校を卒業して5年以上、そして、のちの『プロ野球編』の山田は1991年当時、まだ中学3年生であった。

1974年当時、のび太が10歳で、山田太郎が16歳というのは、あくまでその当時の設定である。1974年の段階で、のび太は古田敦也より1歳年上で、山田太郎は原辰徳と同い年だった。もし、この設定が21世紀の初めまで続いていれば、2009年でのび太は45歳、山田太郎は51歳になる。
2009年の作品で、のび太は(8月7日で11歳とすれば)1998年8月7日生まれであり、山田太郎は1976年5月5日生まれで城島健司(1976年6月8日生まれ)と同世代になっている。
1976年生まれの山田太郎がアニメののび太と同じ11歳になったのは1987年、『のび太と竜の騎士』公開の年であった。その翌年の1988年に『のび太のパラレル西遊記』が公開された。