すでに述べたようにTBS『水戸黄門』第38部では近畿を訪れた光圀が若き日の吉宗(当時は源六)と出会う場面がある。
吉宗は1684年生まれで、光圀が隠居していたのは1690年から1700年に他界するまでだったので、この時期、吉宗は満年齢で6歳から16歳、今の日本なら小学校入学直前から高校1年になり、当時の数え年なら7歳から17歳である。このとき、1628年生まれの光圀は満62歳から72歳まで、数え年で63歳から73歳の時期ということになる。

ちなみに、光圀が東北に行った旅で松尾芭蕉が出てくる話は、芭蕉の没した1694年より前の話であるから、光圀が満66歳(数え年67歳)以下、吉宗が満10歳(数え年11歳)以下のときの話である。

さて、光圀が実際に吉宗に会ったことがあるのだろうか。

『トリビアの泉』で「水戸黄門の最大の遠征先は鎌倉」と紹介され、かつては『歴史への招待』でも「水戸黄門漫遊せず」と言われたように、水戸・徳川光圀の行動範圍は関東地方の中に限られていたようだ。
おそらく、光圀は水戸と江戸を往復することが多く、鎌倉にも行ったのであろう。
また、日光東照宮は今の栃木県にあり、茨城県の水戸にも東照宮はあるようだ。

吉宗は紀州徳川家の人間で、地元が関西なので、生前の光圀と吉宗が会うためには光圀が関東から出るか、吉宗が関西から出るか、いずれにせよ、どちらかが領地から出ないといけない。水戸徳川家と紀州徳川家が会うとすれば、両者が江戸城に立ち寄ったときぐらいであろう。
また、『水戸黄門』を観る限り、光圀も隠居したあと、江戸にたびたび足を運んでいる。

しかし、光圀が隠居したとき、吉宗は数え年7歳の子供。吉宗が江戸城に行ったとすれば、早くても1705年に数え年22歳で紀州藩主になってからの参勤交代のときであり、すでに光圀はその5年前に世を去っており、吉宗が数え年33歳で将軍として江戸城に常駐するようになった1716年はさらにあとの話である。
└→水戸・徳川光圀と紀州・徳川吉宗II

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09年7月末