山田太郎が高校1年で初めて出場した夏の甲子園は第56回大会。1974年の大会であった。
それが、大会が終わったあとの秋季大会を目前にした時期(文庫第13巻)では野村克也選手のプロ22年目の年になっており、これは1975年である。

これは少年チャンピオン・コミックスを観るとわかる。

山田太郎が高1夏で出場した甲子園大会は、だいたい、少チャンCの第14巻あたりから始まっている。
第1試合が始まった第14巻で初版が昭和49年(1974年)にしてあるものがあるが、前後の巻と比べると、昭和50年(1975年)に入っていると見たほうがよさそうだ。
山田が高1夏、神奈川代表として大阪に向かったのが8月2日。
第13巻は昭和49年刊行で、第15巻は昭和50年刊行になっている。

その後、明訓が通天閣を破り、勝ち進んだ結果、準決勝で土佐丸と対戦。決勝でいわき東と対戦し、明訓が優勝して、秋季大会を前に徳川監督が里中を臨時キャプテンに指名している。
さて、徳川監督時代の末期、里中がキャプテンになったとき、山田が里中に逆療法を勧め、このときに南海(当時)の野村選手の話をしているのだが、ここでは単行本が第19巻のあたりになっていて、初版は1975年(昭和50年)である。

つまり、原作で明訓高校1年の山田たちが夏の大会を戦っている間、世間では年を越してしまったわけだ。

もちろん、キャプテンが里中だったのは暫定的なもので、秋季大会が終わって土井垣監督の体制が始まると、キャプテンは山岡になっている。

なお、少年チャンピオン・コミックス『ドカベン』の明訓編の場合、高1夏甲子園大会の開幕直前が第13巻で1974年の終わり。高1夏甲子園が始まったすぐあとの第15巻で1975年、秋季大会直前の第19巻が75年の終わりに近いころで、そこで、山田が「野村監督がプロ22年目」と言っていた。次に高1夏秋季大会に入った第20巻で1976年になり、土井垣明訓になったあと、関東大会で山田が記憶喪失になった第25巻のあたりで1977年に入っている。

作品が発表された年(少チャンC巻末初刊發行年より)
1974 高1夏予選~大阪入り(甲子園球場は兵庫県)
1975 高1夏甲子園(設定上は74年、第56回)~秋季大会直前(設定が75年に)
1976 高1秋県大会~関東大会
1977 高1秋関東大会

つまり、夏の甲子園の第1試合から決勝までを描くのに1年、神奈川県秋季大会から関東大会の途中まででまだ1年かかっているのである。

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09年7月末