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川上哲治I、〃II

 1967年秋ごろ、二軍時代の飛雄馬が「ばか正直」で悩んでいたとき、ひとりで飛雄馬に助言し「わしのやった背番号16がよごれとるぞ」と激励した。のちに70年夏の「屈辱の“夢の球宴”」で飛雄馬が弱気になっていたとき、川上は「そういう了見なら最初からその背番号をつけてほしくなかった」と叱責。
 この球宴で川上は飛雄馬に「星の積み重ねをファンが評価した」と激励しながら、実際の試合では星が野村、アルトマンに連打されても星を交代させず、飛雄馬が真の勝負師か試す厳しさを見せた。

 

 

 68年の台湾キャンプで川上は「目の前の障碍を突破せずして、その先など無意味」と言い、飛雄馬はそれに感銘を受けたが、それが行き過ぎて、飛雄馬は目先の勝負に一喜一憂し、勝手な挫折、失踪を繰り返した。70年になって川上は飛雄馬に「君の行き方はすべてかゼロか、極端に偏りすぎている」と釘をさすこととなった。
 69年に川上は一徹に二軍コーチ就任を要請したが、かつて川上によって巨人から解雇された一徹はこの調子のいい要請を拒否し、川上の上司だった水原のいる中日に入って巨人に立ち向かった。
この「二軍コーチ就任」はのちに長嶋監督時代の79年に、星飛雄馬が巨人の二軍コーチになることで実現する。

 

 

 

梶原野球漫画における川上哲治は、巨人入団を希望する星飛雄馬を「必要なし」と言い切ってテストし、巨人入団を拒否する番場蛮を敢えてドラフトで指名した。

 

 

 

 70年秋、川上はドラフトで番場蛮を指名。この時期の川上は戦国時代の武将、策士、軍師のようであった。
 また、番場が魔球をライバルに打たれて球場から去ると、川上は八幡に対しても「放っておけ」と言い、番場自身の立ち直りを信じて待つのみ。その代わり、ベンチでは策士ぶりを見せた。
 星飛雄馬は一徹によって矯正された左手で投げていたとき、野球も一徹のためにしていたところがあり、同僚、コーチはおろか、川上監督の声も聴かないところがあった。
 一方、川上と番場蛮の関係は線上の大将と兵士のようで、ストレートであった。左腕時代の星飛雄馬にとっては何よりまず、親父からの評価がすべてだったのに対し、番場蛮との関係では川上監督が「星一徹」の役割を兼ねていた。

 

 

 

 73年、番場が日米ワールドシリーズで最優秀選手に選ばれたとき、川上が贈ったことばが、のちにボクシングの亀田家によって使われたという指摘がネット上にある。
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 74年、長嶋現役最終年。長嶋は藤村甲子園の変化球投手としての能力を見抜き、変化球打ちの特訓。川上と王は不思議がっていた。
 74年に番場蛮が3連投を志願し、番場は心臓麻痺で死去。川上は監督を勇退した。

 

 

 

 星飛雄馬が主に左腕時代、ライバルに本塁打を打たれるたびに決め球を封印していたこといついて批判もある。これについては「屈辱の“夢の球宴”」で金田正一が「相手はプロだから」と反論していた。また、番場蛮がエビ投げハイ・ジャンプ魔球をウルフにハイ・ジャンプ打法で打たれ、マウンドを降りたとき、八幡が「他の打者にはまだ通用するのでは」と言ったのに対し、川上は「プロは甘くはない。第2、第3のウルフが現れるだけだ」と説明した。
 もっとも、番場が横分身をウルフに打たれたとき、川上は他の打者には通用するということで、番場に続投を命じている。また、原作で番場は大回転魔球を開發したあと、ハイ・ジャンプとの二刀流も試していた。
 78年に星飛雄馬が大LB右1号・蜃気楼の魔球をヤクルトの花形に打たれた際、その試合で星は降板したが、長嶋は星に「ヤクルト以外のライバル球団には、魔球はまだ、通用する」ということでそのあとの試合に登板するよう説得。飛雄馬もそれにしたがい、中日と広島を相手に勝つが、それはヤクルトの順位を上げる結果となっていた。

 

 

 

補足
川上哲治の妻は、川上の現役時代、東京には行けず、熊本で農作業をしていた。それで夫婦関係が圓満に継続できたのは当時ならではで、今では考えられないだろう。
この奥さんは1970年の自主トレ期間、川上哲治と欧洲旅行に同行、星一徹からの国際電話に腹を立てていた。

 

 

 

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2009年6/17