クリィミーマミ綜合年表II 

『魔法の天使クリィミーマミ』の森沢優の誕生日が10月10日だとして、1983年の誕生日で10歳だったとすると、計算上、1986年3月で小学校を卒業したことになる。
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この設定で森沢優が小学6年生の3学期、卒業間近だった2月1日、OVA『カーテンコール』が出ている。

1986年当時、チェッカーズが「NANA」を出した(Wiki)。
チェッカーズはクリィミーマミと同じ1983年デビューだが、86年のこの曲から自作曲をシングルA面にするようになった。
当時は「自作曲で歌うのがアーティストで、プロの作詞家、作曲家に作ってもらうのがアイドル」という奇妙なジャンル分けがFM雑誌や歌手の間でひろまっており、もとから自作曲だっは尾崎豊はもとより、吉川晃司も途中から自作曲せ勝負するなど、自然な流れであった。

これについてメンバーだった高杢が『チェッカーズ』で書いており、BOOK OFF で立ち読みしたのだが、高杢は当時の自作曲での勝負を「師匠への裏切り」であるかのように批判的に書いている。しかし、自作曲への轉向は当時の J-Pop としては普通であり、むしろ、弟子が師匠から脱皮したと解釋できる。

83年デビューの飯島真理は他者による作品「夢色のスプーン」を出しながら、そのあとの自作曲による「きっと言える」とそれを含むアルバム『Rosé』を公式デビューとしているようだ(シンガーソングライターとしては「きっと言える」が真のデビュー曲である)。
ザ・グッバイも「気まぐれOne Way Boy」が他者の作品で、あとは、ほとんど、野村・曽我コンビによる作品(途中から Paul Wilson という謎の人物が曲作りに参加)で勝負していた。
これについて初めのシングル曲を作った作詞家、作曲家が不満を言ったという話は聴かない。

この当時の「プロの先生に作ってもらう歌を歌うアイドル」への逆風はすさまじかったようで、あの本田美奈子(85年組)もデビュー2年目の86年には「1986年のマリリン」などでロック色を強めていた。本田美奈子は当時の「アイドルとアーティスト」の分類に抵抗し(確かにクラシックの演奏家は自作曲を演奏しているわけではない)、曲調をロック風にしてバンドを結成し、一度は某FM雑誌でワースト・アーティストに選ばれてしまった。

当の太田貴子も86年からは『クリィミーマミ』関連ではない曲が増え、しかも曲調もロック風に変わっていった。
太田貴子より1年後輩に当たる84年組も同様で、荻野目洋子の「ダンシング・ヒーロー (Eat You Up)」が85年で翌年までこの路線が続き、長山洋子の「ヴィーナス」が86年の曲であることも同様である。

もし、森沢優が16歳で歌手デビューしていたとしても1989年デビューになり、おそらくイカ天ブームの中でバンドのボーカルとしてデビューという形になったことだろう。あるいは歌手デビューすらも考えなかった可能性もある。

補足
1986年から88年の前半までの2年半、サザンオールスターズは活動休止中で、86年にはクワタバンドが活動していた。

90年代以降のJ-Popで安室奈美恵、浜崎あゆみ、大塚愛、EXILE、ロードオブメジャーなどがシングルのタイトル曲を自分で作詞、作曲しているかなど、気にする人はほとんどいないだろうし、そんなことで歌手やミュージさんはジャンル分け、ランク分けするのもバカらしいが80年代半ばにはそれが普通だった。初めからオリジナルだった尾崎豊は別にして、吉川晃司も太田貴子もアルバムで自作曲に挑戦していた。

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2009年6/16