NYヤンキース、相手のエラーでサヨナラ勝ち 

微笑の「勘違い轉校」のあと、土門が探してきた捕手が谷津吾朗であり、谷津本人はすでに野球部を辞めたつもりだったが、部の関係者が登録抹消を忘れており、それが幸いした。
谷津の捕球技術の進歩は速かったが、それでも土門のボールを落球して勝利を逃したあたり、やはり急造捕手であった。

捕手の技術不足で勝利を逃した意味では鷹丘中学の長島に近い。この長島は、鷹丘中学に轉校してきて柔道部に入った山田の素質を見抜き、何度か野球部に入れようとしていた。
土門も谷津を見つけるまでは、柔道部や相撲部を視察していた。
これは1966年に星一徹が星飛雄馬の剛速球を受けることのできる選手を、柔道部から見い出した(つまり、伴宙太)のと似ている。捕手は球技より格闘技が得意な選手のほうがつとまるのだろうか。

土門は山田世代より1年先輩らしい(つまり明訓の山岡と同学年)。
山田世代高2秋(作中79年、『プロ編』で93年)で土門は横浜学院のレギュラーから離れ、山田高3夏の予選(『大甲子園』で82~85年、『プロ編』で94年)まで、土門が横浜学院の監督をつとめた。1994年秋のドラフトで山田世代がプロ球団から指名されると同時に、土門は母校と同じ横浜の球団・横浜ベイスターズに入った。
横浜学院の監督の座は谷津が受け継いだ。

ここで土門はようやく、プロの捕手を相手に、思う存分剛球を投げることができるようになった。そして95年の球宴でダイエーの岩鬼とオリックスの殿馬を三振に打ち取った。
そして、巨人に入った微笑とバッテリーを実現させ、西武の山田をピッチャーライナーに打ち取った(下注釋)。
その後、四国アイアンドッグス(2004年設立)に入った。犬飼武蔵、不知火、坂田といった剛速球投手がそろったが、新球団なので、初めはいい捕手がいなかった。山田太郎に似た太めの男・丸亀が入団を志願し、捕手になった(下注釋)。

前後一覧
2009年6/14

関連語句
土門 谷津 横浜 [1] [2]


注釋
山田をピッチャーライナーに打ち取った
それでも土門と微笑にとっては不本意な結果であった。土門は谷津が監督をつとめていた母校・横浜学院を訪れた際、やる気を失っていた横浜学院の後輩に「球宴で山田を三振に打ちとると」公約してしまい、協力を頼まれた微笑もキャッチャーフライをわざとエラーするなど、三振にこだわっていた。微笑の捕球技術は高いのだが、このときはかつての谷津吾朗のような急造捕手と誤解されてしまっていた。

『大甲子園』での太平明訓×光高校の試合と、『ドカベン・スーパースターズ編』の2009年開幕直後の展開では、山田が故障すると岩鬼がマスクをかぶった。明訓時代はうまくいったが、東京スーパースターズの場合は、開幕直後に4連敗。明訓時代、土井垣は1試合負けてプロ入りを表明していたが、プロに入って16年または30年(『プロ編』で16年、土井垣明訓編終盤から30年)、ある意味、プロの厳しさを実感したか。

四国アイアンドッグスの捕手
丸亀といえば、1845年に鳥居耀蔵が送り込まれた丸亀藩の地名でもあった。
2004年四国アイアンドッグス設立後、大垣万作という面長の相撲取りが捕手として四国アイアンドッグスに入ったが、2008年、東京スーパースターズとのパ・リーグ頂上決戦でエラーが続き、シリーズ中にもかかわらず急遽引退し、万作は相撲部屋に戻った。しかし、この選手は微笑のホーム突入を阻止したところでは、力士ならではの技を披露。
捕手というポジションと格闘技の関係を意味する上では、興味深い話である。


参照
谷津吾朗の名前の表記について補足
『巨人の星』(2009年5月~)
『ドカベン』(2009年6月)
水島作品関連(2009年4月~6月)