Y!Japan Y!辞書 Google Wikipedia 雅虎 谷歌 Y!Korea Amazon
スポーツ関係者解説一覧I、〃II

野村克也
1954年から現役スタートらしい。1970年、東京都大阪の2度の球宴で、星飛雄馬の大LB2号および3号と対戦。
1973年、岩田鉄五郎の推薦であぶさんを南海に迎える。日本シリーズで番場蛮と対戦。
1975年、プロ22年目。山田太郎は明訓の1年秋をむかえ、野村がやったと言われる逆療法を里中ににさせていた。
1977年、春のOP戦でヤクルトに入った花形にささやき作戦を仕掛けたが効果なし。
1979年、野村が西武にいたとき土井垣に日ハムに入団。

 

 

田淵幸一
1969年シーズン終盤から70年開幕直後にかけて、星飛雄馬の消える魔球を打つのではなく、その合間の速球を打って2安打。魔球打ちは花形に任せていたようで、70年の開幕直後の試合では、3塁走者として花形の消える魔球打倒策に協力。
阪神で江夏とバッテリーを組んでいたとき、東京メッツと何度も対戦。
1974年の球宴では番場蛮とバッテリーを組んだが、ここで番場のハラキリ・シュートの弱点が野村に見抜かれた。
田淵がHR王になった1975年には、花形が“ビッグ”ビル・サンダーに田淵を紹介し、伴宙太の仲介により、サンダーが76年に阪神コーチに就任。山田が高2春の選抜に出場したとき、掛布とともに山田の打撃練習を視察。78年ならまだ掛布と同じ阪神にいたが、79年では田淵は西武に移籍していたはず。
1979年、小林繁が巨人から阪神に、田淵が阪神(虎の球団)から西武(獅子の球団)に移籍した。この移籍の前と後(あと)の状況は『がんばれ!!タブチくん!!』で描かれた。
インターネットで観ると、本人は関西辯をしゃべらないのに『巨人の星』では関西辯を話しているとされている。『野球狂の詩』では田淵は関東辯、江夏は関西辯を話している。

 

 

 

江川卓
高校時代、1973年秋のドラフトで阪急から指名された。このドラフトで東京メッツは唐部と丘を指名。
1974年に法政大学に入ったとき、明訓の山田、岩鬼らが1年生。
1977年秋、ライオンズの指名を拒否して渡米。1978年に星飛雄馬が蜃気楼の魔球を開發。
1979年、巨人入団直後、練習に水木炎が乱入。
1982~85年ごろ、巨人にいたとき、明訓の岩鬼(当時高3)が江川のまねをしていた。

 

 

 

原辰徳
「若大将」といえば、20世紀後半の藝能界で加山雄三、野球界で原辰徳であろう。原辰徳は長嶋茂雄が巨人に入団した1958年にに誕生した。
明訓高校の山田、岩鬼らが甲子園に初出場した1974年夏、当時、高校球児だった原辰徳が甲子園に出場した。選手としても指導者としても「ONのあと」というプレッシャーと闘ってきたことだろう。
2008年の日本シリーズでは巨人をひきいて西武と対戦したが、『ドカベン』では原巨人が東京スーパースターズと対戦したことになっていた。

 

 

 

落合博満
ロッテにいた1982年に初めて三冠王になった。このとき中日ドラゴンズがセ・リーグ優勝し、木藤亜也氏が入院していた愛知県知立市(ちりゅうし<ちりふし)の秋田病院で赤飯が出た(→参照)。この1982年は星野仙一の現役最終シーズン。
中日移籍後、平成の初めには巨人の藤田監督がスカウトした新城童夢および番場蛮の甥と対戦した模様。
中日の監督に就任したのち、2007年の日本シリーズでは東京スーパースターズと対戦。

 

 

 

ジャイアント馬場
もと、巨人の投手で、プロレスに轉向。二軍時代の星飛雄馬と同室だった大内山先輩が話題にしていた。星が巨人に入った1967年、タイガーマスクがアメリカで「黄色い悪魔」と呼ばれており、虎の覆面で来日(伊達直人のパスポートの写真はどうなっていたのか)。
72年秋のドラフトで大洋に入った不二立彦を馬場がマット界にスカウトしたことがある。