テレビの音声を聴いただけだが、深夜の番組で江川卓が「投手の役目は勝つことではなく負けないこと」と言っていたと想う。
番組は『SUPERうるぐす』だったか(下注釋)。
投手のつとめは相手の得点を阻止することである。

 

 

確かに野球のルールでは投手がいくら打者を打ち取っても、それだけでは投手のチームには点は入らない。
└→もしも野球に個人への「採点」が導入されたら

 

 

 

星飛雄馬は青雲高校時代、東京都の予選の決勝で「負けはしないが、勝てない」と感じ、終盤のほうではそれも甘かったと感じた。
投手がいくら抑えても、その前後の攻撃のときに味方が点を取らないと意味がないのである。

 

 

 

逆に言えば、投手は勝とうと想いすぎないほうがよく、相手チームが勝つのを防げばいいだけの話である。
さて、左腕時代の星飛雄馬は速球や魔球をライバルに打たれたとき、チームとしての勝敗を無視して、勝手にマウンドを降りて、場合によっては二軍に行くか、あるいは失踪することを繰り返していた。
10代の飛雄馬は勝ちにこだわりすぎていた(プロ野球編の飛雄馬は1970年で19歳)。

 

 

 

左腕時代の星飛雄馬は、自分個人が打者を完封できるときだけ、マウンドに上がる傾向があった。
河崎実は『「巨人の星」の謎』で飛雄馬のこの性格に対し「プロ失格」の烙印を押している。

 

 

 

豊福きこうも『水原勇気0勝3敗11S』で同じことを指摘しているが、一方で「左腕時代の飛雄馬は打者を完封できるくらい絶好調でないと勝てなかった」としている。左投げの飛雄馬は、ライバルに安打を打たれたら、すなわち本塁打という極端な投手であった。これは岩鬼正美が「三振か本塁打」と言われるのと結果としては同じだが、原因が打者でなく投手にある点が違う。

 

 

 

豊福きこうが指摘しているように、番場蛮と右腕・星飛雄馬はライバルに魔球を打たれてもチームから要望があれば登板する投手になっていた。

 

 

 

『新巨人の星』の終盤、1978年のシーズンで星飛雄馬は蜃気楼の魔球をヤクルトの花形に打たれる。飛雄馬は敗者の気分だったが、長嶋監督が飛雄馬を説得し、ヤクルト以外の中日、広島との試合に登板させ、魔球で勝ち星を稼いだ。しかし、それはヤクルトの順位を上げてやる結果になった。最終回は横浜大洋との試合で、飛雄馬は左門に蜃気楼を強打されたが、王貞治のファインプレーでアウトにし、試合は勝った。しかし、飛雄馬には勝利投手としての喜びはなく、翌年、1979年のシーズン中に長嶋監督からコーチ就任を要請され、事実上、戦力外通告を受けた。

 

 

 

前後一覧
2009年6/8

注釋
『SUPERうるぐす』
「うるぐす」は江川卓の名「すぐる」をローマ字で SUGURU と書き、逆にして URUGUS にしたものらしい。
ちなみに、「えがわ・すぐる」をローマ字で EGAWA SUGURU と書いて逆にすると URUGUS AWAGE になり、強引にひらがなで書くと「うるぐす・あわげ」になる。S と A が連続すれば「うるぐさわげ」になる。
「えがわ・すぐる」をテープに録音して逆再生したら、「うるぐさわげ」に似た發音になるはずだ。

参照
江川卓II【人物】
スポーツ全般、梶原vs水島他(2009年6月1日~16日)