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『水戸黄門』で毎週、印篭(=印籠)を観たがる人たちの問題点
『水戸黄門』は日本の各地の政治、経済に汚職や不正が何度も生じ、そのたびに首都圏から極秘で使者を派遣して監視しないといけないという話である。
そこで水戸の徳川光圀主從によってこらしめられる金銭欲に染まった武士や商人である。ここで光圀一行が印篭にある葵の御紋を出して平服させる。しかし、悪代官や悪徳商人が平伏するのは、政治倫理その他ではなく、くまで光圀が持っている徳川家の権威を恐れてのことである。『水戸黄門』における悪党にとって、重要なのは政治倫理でなく金銭と権力であるから、光圀主從はまず、相手の価値観では最も重要な政治的権力、徳川家の威光によって相手を説き伏せるのであろう(注釋)。

もし、光圀が悪代官と悪徳商人を庶民の立場から説得したかったら、あくまで身分を隠したままで「越後のちりめん問屋の隠居・ミツエモン(注釋)」として説得すべきであった。
そうなると、もし、庶民の立場から政治倫理を説く話であれば、光圀から徳川御三家の身分を取り去った一人間としての立場こそが重要で、その立場で悪人を叱責すべきである。光圀は、本来の身分である「水戸の徳川光圀」ではく、假の姿であるはずの「ミツエモン」のほうが人間としては本当の姿に近いという、少し逆轉した結論になる。

TBSの『水戸黄門』では光圀主從が印篭を出さないこともあった。東野英治郎の時がそうだったようだし、一度、原点回帰した石坂浩二版でもそうだった気がする。
しかるに、印篭が毎回出るようになったのは、おそらく視聴者からのリクエストによるものだろう。8時45分の「ひかえおろう」を毎回、楽しみにしてきた人が多いことは、新聞などの投書でたびたび見かけた。石坂浩二版で一度、原点回帰したものの、里見浩太朗版ではまた、往年のパターンに戻っているようである。
しかし、行く先々でいつも正体を明かしていたのでは、忍びの意味がなくなる。

それに、あちこちで必ず徳川家の家紋を出していたのでは、当時、日本各地に起きた不正は「徳川幕府の権威」を使わないと少しも是正されなかったことになる。光圀の前でひれ伏した悪党たちが本当に反省したはずがない。光圀が訪れた地方では、どこでも、光圀一行が去れば、しばらくして、また同じ種類の問題が起きる。
「隠居」とは家に隠れる意味だが、これでは光圀が西山荘にいるのと、不在であるのと、どちらが期間として長いかわからない。助三郎と格之進も水戸での本来の仕事がつとまらない。飛猿は薬の行商が本業だったので、漫遊に駆り出されても差し障りはなかっただろうが、風車の弥七は江戸でそば屋を営んでいたようで、いつも全国ツアーに駆り出され、固定客がつかなかったのではないか。
これなら、幕府直属の監視役に葵の紋のついた認定書を持たせ、日本各地に複数常駐させるほうが確実である(注釋)。

しかも、あれほど毎回、光圀が全国旅行をしていては、「ミツエモン」が光圀であることは日本中で話題になっても不思議ではない。実際、光圀の偽者が出る話では、「御老公一行は忍び旅で町人姿で從者が二人」ということがすでに行き先で知られていた。
そもそも、日本のどこかの藩でお家騒動があったとしても、徳川家の人間が偽名を名乗って旅をするというのは、あらゆる政治的な解決手段が役にたたなくなった場合の非常手段である。年がら年中やったのでは、「ミツエモンと名乗る白いヒゲの老人が来たら、そのおかたは水戸光圀公だ」ということが各地の宿の主人や代官、商人にも知れ渡ってしまう。
また、初期の作品では前後2回に分かれた話もあったが、今ではそういうものは2時間SPくらいで、あとは毎週(再放送では毎日)、光圀がどこかを訪れ、各地の名産を紹介し、印篭を出しては去っていく内容の繰り返しである。

本来、非常手段であるべき漫遊を慢性化させたのは、それを喜ぶ視聴者だったのかも知れない。これにより、主人公が政治倫理よりも中央の権力者の権威を常に振りかざす時代劇になっていった。

また、光圀があんなに何度も旅をしていれば、路銀だけで水戸藩の財政は破綻状態だっただろう。世直し旅は税金の無駄遣いである。
2011年の『水戸黄門』継続を求める署名運動で署名の用紙に「黄門様の旅を終わらせてはなりません」とあったが、話は逆だ。徳川光圀は全国旅行などしてはいないし、すべきではなかった。西山荘で『大日本史』編纂に專念していたはずの人物であった。旅をしても日光と鎌倉の間、あるいは勿来(なこそ)と熱海の間で充分であった。関東の外への旅など、佐々木助三郎(佐々介三郎)に任せてよかったのである。
└→『水戸黄門』の経済上の問題点

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09年6/7