長屋は時代劇や落語で庶民の生活の場として有名である。
 
『巨人の星』で星一徹と春江は長屋に住んでいた。「終戦」後にそこで生活していた。
春江が没したあと、一徹、明子、飛雄馬の3人暮らしであった。
飛雄馬と明子は1969年の正月、東京タワー近くのマンションに引っ越した。
長屋の星家は一徹のひとり暮らしになるが、中日のコーチになったのでシーズン中は名古屋のドラゴンズ宿舎住まいで、1969年の球宴のときに長屋に戻っていたくらいであった。

 

この長屋は1970年の春から夏にかけての時期、スーパーマーケット建設のために取り壊される。
もともと長屋に電話はなく、近くのラーメン屋かタバコ屋(下注釋)にあったくらいだったが、取り壊されたときには近くに公衆電話があった。
飛雄馬はマンション、明子は失踪、一徹は中日宿舎住まいなので住むところに問題はなかったようだ。
その後、飛雄馬のほうが左腕を破壊して失踪し、逆に明子が花形と結婚して等々力の花形邸に落ち着く。
一徹は都内のアパートに住んでいた。

 

飛雄馬は1975年までは住所不明で、アニメの描写を観ると、おそらくバッティング・マシンを相手にした特訓をした山の小屋に住んでいたものと想われる。
その後、巨人に復帰すると、巨人軍の宿舎が飛雄馬の唯一の住みかとなった。合宿がありながらマンションに引っ越したときと比べると、飛雄馬の巨人に対する忠誠は深まったと言える。

 

『野球狂の詩』の火浦健が育った家も長屋のような質素なものだった。
 
『ドカベン』の山田太郎も長屋に住んでいた。
小学4年のとき、両親が交通事故で没し、太郎とサチ子は長屋にある祖父がいとなむ畳屋に住んでいた。
作中で太郎が明訓高校に入ったのは1974年春だったが、『プロ野球編』以降の設定では1976年5月5日に生まれたことになっている。

 

この長屋の大家はプロ野球のロッテ(当時はオリオンズ)とビジネス面で関係が深かったらしい。
『大甲子園』によると、1982年から85年までのある時期、山田太郎が高校3年で夏の甲子園大会に出場していたとき、長屋の大家が山田の祖父を含めた住民に立ち退きを要請。ただ、立ち退きを免れる条件として、大家は太郎の祖父に「太郎が高校を卒業するときに、太郎を指名した球団がロッテ以外だったらプロ入りを拒否して大学に行くと約束させてほしい」という趣旨の要求をつきつけた。太郎の祖父は太郎の意思を確認せず、その場で承諾してしまう。
結局、「山田が大会中にロッテを逆指名」と報道され、学校側から電話で注意される羽目になる。
さて、山田が夏の甲子園に優勝し、1994年秋のドラフトでロッテを含む10球団から1位指名され、抽選で西武に入ったとき、山田は長屋に住んでいた。

 

『プロ野球編』『スーパースターズ編』では山田の祖父の出番は少なく、長屋も余り出てこない。
Y!JapanGoogle
山田太郎 長屋 プロ で検索

 

『スーパースターズ編』直後に伊集院光が水島新司と対談した様子が『球漫』に収録されている。山田はプロ入り後、相当な額の契約金をもらったはずだが、家は相変わらず長屋。キャラクターとしては山田はどうしても長屋だという話であった(下注釋)。
岩鬼は高校入学当時、実家が豪邸だったが、高2春の選抜のときの岩鬼建設倒産で、岩鬼の両親は山田と同じ長屋に引っ越した。
その後、岩鬼はプロに入り、夏子と結婚し、自分の家を持つことになる。

 

『プロ編』の山田は城島健司と同世代であるが、今の社会で、この世代がプロ入り直後まで長屋生活というのは非常に珍しいのではなかろうか。『巨人の星』でも1970年の時点で長屋の取り壊しが描かれていたのだから、初期『ドカベン』の山田太郎が活躍した70年代初めには、長屋も日本人の生活から姿を消していったはずだ。

 

Wikipedia 長屋 を観ると、今でも東京の月島などで長屋が多く見られるらしい。

 

@kyojitsurekishi

「ドカベン」では1972年当時から山田太郎の家は長屋であった(プロ編の山田太郎は76年生まれ)。80年代半ばの「大甲子園」では長屋の住民が立ち退きを迫られ、太郎の祖父がそれを防ごうとした結果、「逆指名」騒動が起きた。「ドカベン」の方が保守的である。

午前0:58 · 2012年12月5日

 

「巨人の星」では星飛雄馬の生まれ育った長屋の家に電話は無く、飛雄馬は巨人軍宿舎やマンションに引っ越して、初めて「電話のある生活」を経験した。

携帯電話がなかった頃

「携帯電話がなかった頃、人はどうやって待ち合わせしていたか」を聞いた10代が「マジすか!」を連発 - Togetter

午後8:14 · 2016年9月14日

 

いがでんさん (@igacrystal) / Twitter

ドカベンって、今読むと、豊かになる前の日本の光景がギリギリ残ってた時代の残滓が感じられるんだよね。山田、坂田の家庭環境とか特に。 …問題は、プロ野球編になって平成の時代になっても、その設定や描写を引き継いじゃってるとこだけど。

午前9:20 · 2017年2月4日

 

#巨人の星 の星飛雄馬も #ドカベン の山田太郎も貧しい長屋育ちで高校進学は大変だったが、プロ入り後、金を稼ぐようになった彼らがどこに住み、古巣の長屋がどうなったか、比較してみるのも面白いだろう。

午後1:53 · 2017年2月10日

 

tweet(1) (2)〕〔TWEET(3)〕

 

前後一覧
2009年6/6(Y!Blog)
📅平成21年6月(AmebaBlog)

 

関連語句
星飛雄馬 山田太郎 長屋
電話 長屋(twiog)

注釋
ラーメン屋かタバコ屋
1968年の開幕時、星飛雄馬が速球を左門に打たれた時、星一徹は飛雄馬に電話でアドバイスしようと、近くのラーメン屋まで走ったが、間に合わなかった(文庫第5巻「左門の予告ホームラン」)。
1969年後半戦、飛雄馬が大リーグボール1号で9連勝した時(文庫第6巻「男の一念」)、飛雄馬は宿泊先から東京の寿司屋に電話し、寿司を長屋に届けさせ、折り返しの電話を一徹に頼むよう傳えた。一徹はたばこ屋のダイヤル式公衆電話からかけていた。
1969年の開幕前、巨人が宮崎キャンプをしていた時(明子はマンション住まい)、一徹は長屋の近くのタバコ屋で名古屋まで長距離電話をかけていた(文庫第7巻「最後のわがまま」)。
なお、飛雄馬は1968年春の牧場春彦への気遣いの葉書(前述「左門の予告ホームラン」)、翌'69年春の都城行きについて一徹への報告(文庫第7巻「青春とは?」)、1970年、左腕投手時代最後のの中日戦における大洋の左門へのてがみ(「目前の完全試合」)など、速達を多用しており、電話を受けることはあっても。かけることは少なかった。
└→『巨人の星』における星飛雄馬の住まいと電話

 

プロに入っても山田が長屋生活
その当たりは火浦健も似たようなものである。
北の狼・南の虎」で描かれた1974年のメッツの優勝は火浦の功績によるもの。国立ほどではないにしろ、TO砲よりは多額の給料をもらったはずである。

参照