山田世代がいたときの明訓高校、監督別オーダー

漢数字は打順でアラビア数字は守備位置。

 

 

山田世代高1夏、神奈川予選、東海高校戦(作中で1974年、『プロ編』で92年)
一・5岩鬼
ニ・4殿馬
三・8山岡
四・3土井垣(主将)
五・2山田
六・9北
七・6石毛
八・7沢田
九・1里中
【解説】山田、岩鬼、殿馬、里中が明訓高校に入ったとき、ONは現役で、長嶋は引退直前。
山田世代高1夏の甲子園、土佐丸戦で岩鬼が登板した時、3塁には2年の佐久間が入った。

 

 

 

山田世代高1夏の甲子園大会、通天閣高校戦(作中で1974年、『プロ編』で92年)
一・5岩鬼
ニ・4殿馬
三・8山岡
四・3土井垣(主将)
五・2山田
六・6石毛
七・7沢田
八・9北
九・1里中
【解説】山田、岩鬼、殿馬、里中が高1夏で初出場した甲子園は第56回大会(1974年)。神奈川から原辰徳の東海大相模が出場。『プロ編』では92年夏で、松井秀喜が5打席連続敬遠された(下注釋)。『ドカベン』では、この夏の大会が終わると3年生の土井垣が抜け、沢田もここから出なくなる。ヒジを痛めた里中を徳川監督が秋季大会の期間の主将に指名。

 

 

 

山田世代高1の神奈川秋季大会、白新戦(作中で1975年、『プロ編』で92年)
一・1岩鬼(→1回表2塁→延長11回投手→3塁)
ニ・4殿馬(→1回表投手→延長11回2塁)
三・8山岡
四・2山田(→延長11回投手)
五・5微笑(→延長11回捕手)
六・6石毛
七・3今川
八・7仲根
九・9北
ベンチ;里中(主将)・・・負傷缺場
【解説】時代設定が75年に移っているのは、白新戦の前に山田が里中に語った台詞で、野村克也がプロ22年目(1年目は1954年)だったから。ここで微笑、仲根(ともう一人)が加わり、四番山田、五番微笑がこのころからほぼ定着。一時期、微笑は、岩鬼が投手のときに3塁を守るなどしたのち、外野に定着。微笑は山田世代がドラフトで指名された高3秋のとき、高代に3塁の守り方を指導していた。

 

 

 

山田世代高1秋季大会、横浜戦(作中で推定1975年、『プロ編』で92年)
一・5岩鬼
ニ・4殿馬
三・8山岡
四・2山田(→4回表左翼)
五・7微笑(→4回表捕手)
六・6石毛
七・3今川
八・9北
九・1里中(主将)
【解説】山田は3回表に本塁で土門をアウトにしたときに左手を負傷。そこで微笑が捕手になり、山田がレフトに入ったので、試合開始の時点では微笑がレフトだったと想われる。試合終了時点のスコアボードの横には「四・7山田」「五・2微笑」とある。
この大会を最後に、徳川監督は明訓を離れ、関東大会から土井垣監督の指揮下。その後役1年、このときの一番から六番までと九番のオーダーがほぼ継承され、七番と八番は今川、仲根、北の3名のうちの2名だった。

 

 

 

前後一覧
2009年6/1~2 6/2

 

 

 

関連語句
2009年6月 監督 オーダー 徳川監督時代のオーダー

注釋
92年夏の全国大会で松井秀喜が5打席連続敬遠された
『ドカベン・プロ野球編』の設定だと、山田が同じ目に遭ったのは、その半年後の93年春の選抜大会になる。

 

 

 

追加
山田世代高1秋季大会、横浜戦
この試合の前、明訓ナインが横浜学院と相模学園の準決勝を観戦。
文庫第13巻の302~303ページを観ると、相模学園の攻撃の場面で、横浜学院の土門が投げ、相模の打者がライト前ヒットを打ったのだが、守備を担当する野手がなぜか相模のナイン。アシスタントが帽子とユニフォームの柄とチーム名をかきこむときに間違えた可能性あり。

参照
山田世代を指揮した監督II
『ドカベン』(2009年6月)