久しぶりに岩鬼が捕手
『ブラック・ジャック2009』に代わって『エコエコアザラク』が復活した『週刊少年チャンピオン』で、『ドカベン・スーパースターズ編』の岩鬼正美が西武との試合でキャッチャーをやっている。
岩鬼は1982~85年、『大甲子園』での光高校との試合で捕手を担当したことがある。
2009年の『ドカベン』はそれから20年、『ドカベン・プロ野球編』(以後、『プロ編』と略す)以降の設定でも山田世代が高3だったのは1994年度だから15年ぶりになる。
楽天の真田一球が捕手になっているし、メッツの岩田鉄五郎も元巨人の八幡太郎平も投手から捕手になったので、岩鬼が捕手をしても不思議ではない。

 

 

ここで、問題なのは山田以外の捕手である。
2009年初めの自主トレからキャンプにかけて、山田が肩を壊し、土井垣が監督兼任で捕手をすることになっていた。ここで岩鬼と殿馬の会話から、微笑三太郎でも捕手としてはブランクがありすぎるということで土井垣が捕手をすることになった(注釋)。
周知のとおり、微笑三太郎は初めの予定では捕手として横浜学院に轉校して、土門のボールを受けるはずだったが、轉校先を間違えて明訓に来てしまい、明訓に山田がいたので外野手に轉向。そのまま外野手として巨人に入った95年のオールスターで横浜ベイスターズ時代の土門と念願のバッテリーを組んだことがある。
したがって、微笑の捕手としてのキャリアは岩鬼のそれよりは1年だけ「新しい」はずだ。

 

 

 

一方、土井垣は正捕手だったが、山田が入ったので内野手になり、79年夏(『プロ編』では93年夏)に日本ハムに入ったところで捕手に戻り、95年の近鉄との開幕戦では不知火のボールを受けていた。
土井垣も微笑も山田に捕手の座を譲ったが、プロ入り後、正式に捕手に戻ったのは土井垣のほうであった。

 

 

 

それでは、明訓時代、山田以外に捕手はいなかったのか。
まず、山田が明訓に入りたての描写では、当然ながらほかに捕手はいた。土井垣が打撃練習をしていたとき、別に捕手がおり、その捕手は里中のボールを受けたことがある。
山田が土井垣から背番号2を譲り受けたあと、明訓の練習の場面では、山田の打撃練習の場面などで、「山田でもなく、微笑でもない明訓高校野球部の捕手」がいる。
徳川監督の時代に退部したものが大量に出て、一時は野球部存続の危機となり、このときに仲根と今川が入部した。
徳川監督と土井垣監督のとき、山田が捕手でない場合には微笑がマスクをかぶっていた。明訓が土井垣監督時代になって間もなく、大沢監督の時代の日本ハムがドラフトで土井垣を指名したとき、山田世代は高1の秋だったはずだが、その時点で岩鬼が「下級生」と呼ぶ後輩がいた(指名から9箇月後の土井垣の日ハム入団が79年夏だったので、それからさかのぼると指名は78年秋だが、『プロ編』の設定では92年秋ドラフト指名、93年夏入団である)。

 

 

 

土井垣監督時代、入部した直後の渚と高代の会話から、当時の明訓野球部には「一軍」と「二軍」があることがわかる。その後、練習の場面では明訓の野球部員で山田でも微笑でもない捕手がいるように見える。

 

 

 

『プロ野球編』冒頭では、94年秋のプロ野球ドラフト会議の日、明訓野球部でパンダのように目の周りが黒い部員が「目黒」で、渚の投げるボールを受けており、里中が渚を後継の投手に、山田が目黒を後継の捕手にしようとしていた。
└→明訓高校の補缺、二軍

 

 

 

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2009年5/30

参照
『ドカベン』(2009年5月)