横浜が大洋ホエールズだった時代、田代は「オバQ」と呼ばれていたらしい。ちなみに、『巨人の星』で大LB3号と対戦した長田(おさだ)は通称「ポパイ」。
田代は『新巨人の星』に登場する。星飛雄馬が1976年後期に右投手として復帰。77年にコントロールを改善したが、左門が星の投球フォームから球種を読むことに成功。星は田代のような他の強打者を打ち取ったが、左門ひとりに打ちこまれて負けてしまう。
ネットで調べると田代は1954年生まれ。番場蛮や藤村甲子園と同い年で、『巨人の星』プロ野球編の星飛雄馬より3歳年下である。

 

2008年、横浜ベイスターズは最下位だったらしい。
2008年といえば、1978年に今の横浜球場が完成してから30年。つまり、大洋ホエールズが横浜大洋になってから30年たっていたわけだ。
横浜がベイスターズになったのは1993年であり、昨年(2005年)はベイスターズとしては15周年。記念すべき年だったはずである。

 

 

横浜の村田がWBCで肉離れを起こし、一時、戦線離脱をしたのが響いたか。その責任はWBC主催者にあるのか、原監督にあるのか、讀賣グループか。すでに侍ジャパンは過去の栄光なので、それを云々するのは無意味か。負傷は本人の自己責任か。
メジャー(Major League)からWBCに選手を出さないのは負傷したときの責任問題になるからだろうか。
すると負傷については、メジャーでは選手が球団か大会主催者を訴えて裁判を起こすのだろうか。負傷に関してはアメリカのほうが甘い。

 

 

サンスポによると楽天の野村監督が大矢監督に同情。「責任の所在がおかしい」として、監督業の悲哀を訴えていた。
週刊ベースボール社『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』を観ると1975年には広島のルーツ監督(Wiki)がシーズン前半の途中で辞任、代行を挟んで古葉監督が後任となった。

 

 

1976年にはヤクルトの荒川監督がシーズン前半で「休養」、広岡監督にバトンタッチ。広岡は『新巨人の星』で77年開幕前に花形満を獲得。
1977年は、南海の監督兼任だった野村選手が事実上の「シーズン途中解任」の当事者となった。
77年のOP戦で花形と対戦した野村監督兼捕手は、その年の後半戦、シーズン終了直前で解任され、広瀬監督が就任。
ここで、「監督」とは何かが問題になる。
プロ野球の監督はグラウドにおいて球団の最高権力者のようでいて、オーナーのほうが偉いようでもあり、親会社の幹部がもっと偉かったりする。原監督は2004年と2005年には監督の座から離れていた。それは「讀賣グループの人事異動」という位置づけで、監督は中間管理職のようであった(下注釋)。

 

 

前後一覧
2009年5/19

 

 

関連語句
横浜大洋 田代

注釋
プロ野球の監督は中間管理職
巨人の原監督が2004年と2005年の2年間だけ、解任されていたのは渡辺恒雄(=渡邉恒雄)に言わせると「讀賣グループ内の人事異動」だった。当時の『AERA』は監督が球団の人事を自由に決められないことを指摘し、「中間管理職の悲哀は続く」という趣旨の記事で皮肉っていた。
イチローや松井秀喜のメジャー(Major League)行きと前後して、朝日新聞社の『AERA』はテレビが巨人戦ばかりなのを批判してはいたが、系列局(テレビ朝日など)で巨人戦以外の試合を中継するようなことはできなかった。批判するだけで何もしないのはマスコミの常である。

 

 

ちなみに、アニメの『侍ジャイアンツ』では、中日の大砲が山で病気になり、番場蛮から電話で連絡を受けた川上監督が讀賣新聞支社の取材ヘリを現場に向かわせた。グループ内の別の幹部の許可は取ったのだろうが、球団の一監督がすごい権限を持っているものである。

参照
「監督」とは何か
スポーツ(2009年5月後半)