明訓敗北前後(1979年ごろ) 

『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』の第6号「1979」で1979年当時のプロ野球がわかる。
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『巨人のサムライ炎』では江川の投球練習に水木炎が乱入。星飛雄馬が現役引退して巨人の二軍コーチになり、水木炎に入団テストを課す。

『ドカベン』では山田世代高2夏、明訓が弁慶高校に敗れ、甲子園大会中に土井垣が日本ハム・ファイターズに(間に「・」を入れて見た)、犬飼小次郎が南海ホークスに入った年である。

『ドカベン』明訓編の初期、徳川監督の時代に山田世代が夏の甲子園に出た当時は第56回大会で、1974年であった。
それが高2の夏では5年経過して79年になっている。
普通に考えると、74年夏で高1なら高2の夏は75年である。しかし、75年当時、日ハムの監督は中西太、南海の監督は野村であり、土井垣が日ハムに入ったときは大沢監督で、犬飼小次郎を迎えた南海の監督は広瀬監督であった。
また、土井垣は日ハム入り当時、尊敬する選手として「大沢監督と野村捕手(西武)」を挙げており、ここで野村克也は西武ライオンズに移籍していたことがわかる。何より、ライオンズが75年当時は太平洋ライオンズだったのが、79年(正式決定は78年秋)に西武ライオンズになったあとの話だとわかる。

また、小次郎が入った当時の南海に王天上(Ortenzio)がいた。彼が日本のプロ野球界にいたのは1979年と80年の2年間である。
Wikipedia によると、あぶさんの同僚だったこともあるらしい(時代的に当然であるが)。

1979年当時、犬飼小次郎が入団した広瀬監督ひきいる南海のベスト・オーダーは『週刊プロ野球』によると以下のとおり。数字は打順。
1藤原満(三)、2河埜敬幸(こうのたかゆき、二)、3片平晋作(一)、4メイ(左)、5王天上(指)、6新井宏昌(右)、7山下慶徳(~よしのり、中)、定岡智秋(~ちあき、遊)、9伊藤勲(捕)、投手;山内新一
└→1979年の日本ハムと南海ホークスII


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2009年5/15