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江川卓II【人物】

1977年秋、江川はクラウンライター・ライオンズ(現・西武ライオンズ)から指名されたが、またも拒否し渡米。
1978年は大洋ホエールズが川崎から横浜に移った最初のシーズンであり、ヤクルト初優勝の年でもあった。
1978年正月、ハワイで星飛雄馬、一徹、伴宙太が練習をしていたとき、現地のサーファーたちが星飛雄馬を江川と間違えた(文庫6巻「新魔球の章」)。
江川事件における1977年のドラフトで栃木出身の江川がライオンズを拒否した理由は「九州は関東から遠い」かららしい。選擇肢としては巨人以外でもヤクルトや大洋でもよかったわけだ。78年10月12日、ライオンズは次の79年から埼玉に移ることが決まったが、なぜ、江川が西武ライオンズになっても拒否したか不明。アメリカは九州よりも関東から遠いのだから、1年アメリカで鍛えるくらいならライオンズに1年いても大した違いはなかったはずだ。

江川はドラフト直前に巨人と契約し、ドラフトで阪神から指名されたが、79年に入ってすぐに小林繁とのトレードという形で巨人に入った。小林投手の移籍は田淵幸一のライオンズ移籍とともに『がんばれ!!タブチくん!!』で描かれていた(注釋)。トレードで巨人に入るくらいなら、阪急やライオンズで最低1シーズン投げてから巨人に移籍したほうがよかったはず。江川は他球団に「G入団までの腰掛け」の身分で所属するのをためらったのか。

アニメ『新巨人の星II』では星飛雄馬が大リーグに移る前に江川が挨拶(おそらく最終回)。一方、『巨人のサムライ炎』では79年春のキャンプ、江川が投球練習していたところに水木炎が乱入した。
もっとも、Wikipedia 江川事件電撃トレード によると、江川の巨人入団は開幕後で、キャンプやOP戦には参加できなかったらしい。2009年春に出た『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』5号によると、江川は宮崎キャンプに参加せず、巨人OBの谷沢正氏と実家近くでトレーニングをしていたらしい。

せっかく九州から関東に引っ越しても江川から拒否された気の毒なライオンズは、1985年秋にPL学園の清原和博を指名。清原は巨人希望でありながら西武に入り、それでも活躍をした。そして97年に巨人に移ったのである(注釋)。もし、江川が78年からライオンズに、あるいは74年から阪急に入っていたとしても、79年から巨人で活躍できた可能性はあったはずだ。

「江川事件」から30年たった西暦2008年、新日本石油ENEOSの田澤純一投手が日本のプロ野球を経ずにメジャーリーグ(Major League)への挑戦を表明した。日本野球界では人材がアメリカに流出することが危惧されているが、もとも、日本国内で讀賣ジャイアンツが他球団の選手を買い集めていた経緯があり、空洞化は日本国内で讀賣以外の11球団で進んでいた。野茂英雄以降、その巨人軍の位置にメジャー(Major)という「怪物」が出現し、イチロー、松井秀喜、松坂大輔、城島健司、そして桑田真澄もアメリカに渡った。

今、アメリカが日本球界に対してやっていることは、巨人軍が日本プロ野球界内部でやってきたことの再現である。今さら、日本球界の危機のように大騒ぎするほどのことではない(注釋)。

江川は巨人に入りたい一心で、高3から大学卒業後1年まで他球団からの指名を拒否し続けた。
また、ある選手がロッテからの指名を拒否し、当時、ロッテの監督だった金田正一が激怒したことがあった。調べて見ると小池秀郎だったようだ。最近ではそういう選手はいることはいるが、少ない。みな、大方、どの球団から指名されて、一応、嫌がらずに入団するようになった(注釋)。

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2009年5/13 5/13前後