不知火守【人物】 

山田世代が高校生だったときの白新と明訓の戦いの歴史は以下のとおり。

 

山田世代高1夏の予選、明訓は徳川監督。山田がグリップで打ってヒット。不知火は片目の死角を突かれる(のちに父親から角膜移植を受ける)。

 

1974年、山田世代高1の夏、神奈川明訓が神奈川白新を破って甲子園(第56回全国高校野球選手権大会)に出場したとき、明訓が通天閣高校を破ったあと、通天閣のベンチから坂田三吉が一人だけ動こうとせず、そこに第2試合の選手がやってきた。この選手たちは HAKUSHIN という学校のようであるが、もちろん、神奈川の白新ではないだろう。『プロ野球編』では1992年夏になる。

 

秋季大会では里中が登板できず、山田が投手となって不知火と対戦。山田のコントロールが定まらず、微笑が3塁手のような捕球技術を披露。原作掲載時期は1976年、『プロ編』で1992年秋になる。

 

山田世代高2夏の予選、明訓は土井垣監督。超遅球によるチェンジアップで山田を打ち取る。殿馬の「秘打・ハイジャック」。白新の攻撃で、明訓の微笑が捕球したところを見た審判が暑さで失神し、一時、試合中断。「ルールブックの盲点」による1点で白新惜敗。原作掲載時期は1978年から79年にかけて。『プロ編』では93年夏。
└→不知火守と明訓四天王との対戦II

 

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2006年5/9