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『ドカベン』で山田太郎という捕手が主人公になった背景には、野村克也の存在がある。
水島新司が野村克也のファンで、野村は山田太郎のモデルでもあるらしい(2007年『少年チャンピオン』8月2日号)。

 

 

山田太郎は鈍足であるが、それを長打力でカバーしている。山田は前にでた走者をかえす役割であり、本塁打にならずに出塁した場合、鈍足にとって自らは本塁にかえれず、また、あとから打った打者にとっては前に鈍足の山田がいることで、走塁の上でブレーキになってしまう。
山田世代高2夏(推定1979年)、弁慶高校に敗れたときは、義経の予告投球を打つために土井垣が「1番山田、4番岩鬼」の打順を組み、これが明訓の敗因となった。
これについては豊福きこうが『水原勇気0勝3敗11S』で書いている。

 

 

 

足の遅い打者が出塁しても「帰る男(返る)」に成り得ないことは、すでに『巨人の星』でも描かれている。
星飛雄馬にとって大LB2号と3号の間の「屈辱の“夢の球宴”」となった1970年のオールスター、東京での第1試合である。
南海ホークスの野村は星飛雄馬の大LB2号を「帽子落とし作戦」でライト前の単打。
ここで巨人の捕手・森が星に「星!ノムさんは足がおそい。けん制球でくぎづけにしておき、かまわんからアルトマンにも消える魔球だ!」。
ロッテのアルトマンは水まき作戦で右中間突破の2塁打。ここでアナウンサーが「前に鈍足の野村がいなければ三塁打コース!」と言っていた。

 

 

 

要するに、もし野村が出塁した時点で、パ・リーグが福本のような快足の選手を1塁の代走に出していれば、アルトマンの一打の時点でパは追加点の可能性が高かった。

 

 

 

次に長池の一打は左門に捕られ、野村がタッチアップを試みたものの、左門からのバックホームで野村は本塁アウト。ここでアナウンサーは「足のおそい野村には打球が浅すぎたか」。

 

 

 

ここで野村克也は策士、打者としては一流だが、足の遅さで本塁生還できない泣き所をかかえていたことがあわかる。これは山田太郎につながる。

 

 

 

山田太郎が明訓に入ったときは4月7日が月曜、入学時テストは10日木曜数学、11日金曜現国、12日土曜英語、13日日曜は休み、14日月曜發表。
しかし、1974年では4月7日は日曜で、8日が月曜
4月7日が月曜なのは平年だと次の1975年、閏年で近い時期としては1980年である。

 

 

 

山田が高1夏の甲子園(1974年第56回大会)を終えて、秋季大会が目前にせまったとき。野村克也はプロ22年目、時代設定は1975年に進んでいた。

 

 

 

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2009年5/5前後