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ヤンキース 一塁手 登板 で検索

 

 

NYヤンキースが大量リードされた試合で、一塁手を投手に起用したらしい。当人にとって投手をしたのは高校以来だったという話。言わば、敗戦処理投手である。
野球漫画に出てきそうな展開だ。

 

 

 

『ドカベン』では山田世代高1の秋の県大会、徳川監督が白新戦で山田や殿馬を投手に起用したことがあるし、土井垣もスーパースターズの監督として山田、殿馬、星王らに投げさせたことがある。

 

 

 

一塁を投手にするのは喩えて言えば川上監督時代の巨人が王貞治を投手に起用したようなものだ。王貞治は投手から打者に轉向した選手である。
第1次長嶋ジャイアンツ(1975~80)は、どんなに負けても、王貞治を投手にすることはなかった。

 

 

 

赤城山高校の木下は投手とショート兼任。
土佐丸の犬飼武蔵と犬神、東海の雲竜と幸村は投手と外野手を兼任していた。

 

 

 

東京メッツの場合、投手は岩田鉄五郎、清志がメインだったが、のちに千藤光、日下部了、富樫平八郎(のちに打者に轉向)、火浦健、立花薫、日の本盛、水原勇気が入団。千藤光はショートと兼任であった。

 

 

 

星飛雄馬は元巨人三塁手・星一徹の夢をかなえるための巨人に入ったが、三塁でなく投手になったのは、投手は複数必要で、登板のチャンスが多いからだろう。V9時代、サード長嶋の壁は厚かったが、ピッチャーは堀内だけでは勤まらず、金田正一や高橋一三などがいても足りないくらいだった。星飛雄馬の失踪癖(ライバルに決め球を打たれるとすぐ失踪する)に川上監督が困り、伴を放出するのと交換に中日から投手を獲得したことからも、それがうかがえる。

 

 

 

しかし、一徹が魔送球以外の変化球を飛雄馬に教えることができず、飛雄馬がチームプレーの中での投球に慣れていなかったのも、一徹が投手でなかったせいであろう。

 

 

 

長嶋監督は79年になって飛雄馬にコーチ就任要請という形で戦力外通告。サードに轉向という手はなかったのかとも想ったが、投手が野手に轉向というのは川上や王のような大選手を除くと、やはり少なく、容易ではなかったのだろう。

 

 

 

星飛雄馬は川上の現役時代の背番号16を受け継いだが、これは投手としては挫折した川上の夢を飛雄馬が受け継いだということか(アニメで大LB1号と2号の間の時期、明子が飛雄馬にそういう話をしたらしい)。
実際には川上哲治は投手としてはやって行けず、投手以外の野手となり、打撃の神様となった。この経歴を受け継いだのは背番号1の王貞治である。最終的に監督になったことまで考えると、V9時代の現役選手で川上の後継者となりえたのは星飛雄馬ではなく、やはり王であり、長嶋であった。
└→山田と土井垣と微笑