┌『ドカベン』高2――山田世代の球歴(原作とアニメ)
↓
前年関東大会終了時の徳川監督の台詞によると、選抜は山田世代にとって高1の3学期(年度末)に当たる3月から始まったが、ここでは高2の1学期(年度初め)と解釋。
└→2009年春のセンバツ甲子園は3月21日から
└→一応、世間では4月1日が「年度初め」
↓
前年関東大会終了時の徳川監督の台詞によると、選抜は山田世代にとって高1の3学期(年度末)に当たる3月から始まったが、ここでは高2の1学期(年度初め)と解釋。
└→2009年春のセンバツ甲子園は3月21日から
└→一応、世間では4月1日が「年度初め」
前年(山田高1)秋の関東大会決勝で、神奈川明訓が群馬の赤城山を破ったとき、里中が「関東からは二校でるんだ」と言っていた。この「二校」は明訓と赤城山のことであろうが、実際は関東からほかにも出ていて、山田を5打席連続敬遠した栃木の江川学院、さらに東京都から飯田橋実業と小金井大付属高が出ており、関東からは合計5校が出場していた。
春選抜土佐丸戦。
殿馬のHRはラッキーゾーンへ。外野手・犬神が捕球し、金網の内側に落ちそうになってつかまり、仲間が来たときに下に落ちて本塁打と記録された。しかし、この場合、犬神が捕球して金網の途中にひっかかった時点で打者・殿馬はアウトではなかろうか。
Wikipedia犬神了>高校時代、ドカベン>ルール面
殿馬のHRはラッキーゾーンへ。外野手・犬神が捕球し、金網の内側に落ちそうになってつかまり、仲間が来たときに下に落ちて本塁打と記録された。しかし、この場合、犬神が捕球して金網の途中にひっかかった時点で打者・殿馬はアウトではなかろうか。
Wikipedia犬神了>高校時代、ドカベン>ルール面
1968年の巨×神オープン戦で花形の打球を国松が捕球したとき、国松はフェンスの上に手をかけて身体を支えて捕球し、身体はグラウンドの上にあって、それでアウトだった。
山田高2、夏の予選の明訓×東海戦(明訓の投手は渚→里中、東海の投手は雪村→雲竜)で、山田の打ったHRは雪村がジャンプして捕球し、そのまま客席に落下した。この場合、落球していなくてもHRなのだろうか。
『アパッチ野球軍』ではモンキーがバックスクリーンによじ登って打球を捕り、審判がアウトの判定。『快進撃テレビうたえモン』でこの場面を観た司会者は「時計の上で捕ったかてホームランや」(要旨)と述べていた。
『アパッチ野球軍』ではモンキーがバックスクリーンによじ登って打球を捕り、審判がアウトの判定。『快進撃テレビうたえモン』でこの場面を観た司会者は「時計の上で捕ったかてホームランや」(要旨)と述べていた。
第145~146話の白新戦で微笑がフェンス際でキャッチした球がワンバウンドかダイレクトか、問題となり、これを見た審判は日射病で失神。微笑はダイレクトを、観客はワンバウンドを主張。他の審判たちが協議し、試合中断。客席にいた一人の男が捕球の瞬間を写真機で撮影していたが、ポラロイドではなく、家で現像が必要だった。これはデジタルカメラもカメラ付き携帯電話もなかった時代の話。
武蔵坊が再起不能の危機にあったことを江川学院の中(あたる)から聴かされた山田と岩鬼は、弁慶高校を訪れ、そこで「総師」が滝に打たれていた。これは大会終了直後で、太平が明訓の監督なった時期。山田世代高2の夏の終わりから秋の初めにかけてのころであろう。
プロ入り後の山田が武蔵坊を訪れ、「総師」とも再会したのはそれから10年と数箇月たったころだった。それは西暦2004年の初め、東北では大雪の季節であった。
プロ入り後の山田が武蔵坊を訪れ、「総師」とも再会したのはそれから10年と数箇月たったころだった。それは西暦2004年の初め、東北では大雪の季節であった。
のちに義経は東京スーパースターズに入団し、山田の仲間になる。
山田世代高2が歴史上、いつのことかと考えると、明訓が弁慶に敗れて土井垣がプロ入りしたときのプロ野球の描写では1979年ごろだが、『ドカベン・プロ野球編』の設定では1993年度(高校2年生としての通学期間は93年4月~94年3月)である。
前後一覧
2009年4/14
2009年4/14
〔スポーツ虚実歴史〕
参照
山田世代高2春のセンバツ
『ドカベン』と1978年
『ドカベン』(2009年4月)