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ベースボール・マガジン社『週刊プロ野球セ・パ誕生60年Vol.1長嶋茂雄引退』4月7日・14日号の50ページに1973年度のドラフトで1位指名された選手12名が紹介されている。

 

 

1973年度(学齢では73年4/2~74年4/1)で18歳の選手か22歳の選手。
彼らが生まれたのは1951年度(学齢では1951年4/2~1952年4/2)、または65年度(学齢では65年4/2~66年4/1)である。普通、「年度」は4月1日から始まるとされるが、学齢を考える上では4月1日を年度最終日、4月2日を年度の始まりとしたほうが便利である。
1965年生まれの古田敦也は高校、大学のあと社会人野球を経てプロに入った。1988年のソウル五輪に出たのは社会人野球時代である。

 

1973年秋のドラフトで大洋は山下大輔(当時22歳)を指名。『巨人の星』プロ野球編の星飛雄馬が、もし、大学まで進んで、大学4年からプロに入っていたら、山下大輔と同期だったはず。
『野球狂の詩』の「モビー・ゴッド」で岩田鉄五郎が当時のルーキー・山下大輔と対戦している。

 

南海が藤田学(当時18歳)を指名したことは『野球狂の詩』の「恐怖のTO砲」で描かれ、大洋が山下を、阪急が江川を指名したことも作品からわかる。
 
中日は藤波行雄(当時22歳)を指名。彼は「スラッガー10番」でプロ1年目の74年にメッツの富樫平八郎と対戦。富樫の指が腱鞘炎にかかっていたため、藤波は富樫の投球数を増やそうと、ファウルでねばった。

 

太平洋ライオンズは山村善則(~よしのり、当時18歳)を1位指名。
「北の狼・南の虎」では、当時、ライオンズは九州の球団だったため、阿蘇高校の強打者・王島大介の1位指名を狙っていたが、作中で南の虎・王島を1位で指名したのは阪神。代わりにライオンズは王島の学友だった山川投手を2位で指名した。王島は契約金の一部を外野のネットの建設費用として阿蘇高校野球部に寄付している。

 

「史実」では、阪神は73年のドラフトで佐野仙好(~のりよし、当時22歳)を1位指名。

 

『野球狂の詩』の東京メッツは1位と2位でTO砲の唐部と丘を指名。ドラフト外では入団テストで火浦健を獲得。

 

また、「ガッツ10番」で野村監督の南海が日下部を1位指名(日下部は早稲田に進学)、メッツが富樫を3位で指名したドラフトも、この73年秋であろう(富樫が入団したとき、すでに唐部と丘がメッツに在籍していた)。
なお、「ショーマン投手」の千藤光は高校時代に1973年の第55回全国高等学校野球選手権大会に出場したが、プロ1年目では、その前の7月に開催されたはずの73年夏のオールスターに出場している。指名された秋のドラフトは昭和40年代であるが、「昭和47年度」か「48年度」か判読不能。

 

江川は74年春に法政大学に進学。岩鬼正美は明訓高校1年夏に登板したとき、「みよ、この剛球!!ルバング島から帰った小野田さんにささげる」「この一球、法政大学にはいった江川卓くんにささげるー」などと叫んで投げていた。

 

平成24年tw

2012年10月26日(金)
東海大・菅野智之投手は2011年のドラフトで日ハムから指名されたが拒否し1年浪人して巨人以外なら渡米と宣言し2012年に巨人から単独指名を受けた。34年前の江川事件と違うのは今では大リーグが日本のプロ入り前の選手をスカウトするようになった点だろう。
posted at 00:37:08/

 

当時高3の江川は阪急からの使命を拒否して大学進学。「野球狂の詩」の東京メッツは唐部と丘のTO砲を指名した。大洋に入った山下大輔は「巨人の星」プロ野球編の星飛雄馬と同学年で当時大学4年。
posted at 01:00:12/

 

/2013年12月16日(月)/
「野球狂の詩~ガッツ10番」 - 風こぞうのブログ - Yahoo!ブログ
手持ちの「野球狂の詩」文庫4巻ではメッツが富樫平八郎を「三位」で指名したことになってるが、「五位」という台詞もあったようだ。雑誌掲載時、単行本、文庫で違うのか?
posted at 00:32:51/

 

令和6年pst

水島新司と里中満智子の共作。 「ウォッス10番」「ガッツ10番」の続き

 

 

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関連語句
1973 [1] [2] ドラフト
ドラフト 野球狂の詩(twilog)

参照
平成25年BLOG