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侍ジャイアンツ(作品解説1作品解説2、作品解説3)、注釋1、2


『侍ジャイアンツ』(作品解説2) 

アニメの最終回は1974年10/7で、原作の最終回は1974年10/14号。原作で分身魔球は最終回の前の回に出現したので、製作者サイドでの「分身魔球」のアイデアはアニメと原作でほぼ同時であろう。

原作で主人公が没しているが、続編はアニメでなく原作漫画で作られた(注釋3)。
1991年に『フロム・エー』第7号に掲載された『よみがえれ侍』注釋3)である。1987年に梶原一騎が没して4年経過しており、作者は本編の絵を担当した井上コオ。

『よみがえれ侍』では、巨人の監督が藤田(元司)、実在の投手が桑田(真澄)、対戦相手である中日に落合(博満)が現役で登場しているので、掲載当時の91年を含む第2次の藤田監督の時代であろう。
巨人×中日戦、9回裏、中日の攻撃で、守る巨人は1点リードするもツーアウト満塁。中日の打者は落合で1打サヨナラのチャンス。ここで藤田監督は桑田にかわって番場蛮の甥をリリーフに起用。彼は番場蛮の妹・ユキのむすこだった。
甥の番場は伯父と同じ背番号4(注釋3)で登板。番場蛮を彷彿とさせるハイ・ジャンプ魔球、大回転魔球、分身魔球で落合を3球三振に打ち取る。
この魔球は八幡太郎平が教えたもので、八幡はスタンドで観戦していた。
藤田元司は『侍ジャイアンツ』本編ではピッチングコーチとして登場している。

『よみがえれ侍』は91年に宝島社から出た『いきなり最終回2』(93年文庫化)に本編の最終回とともに掲載されたが、なぜか手持ちの『侍ジャイアンツ』本編の文庫には『よみがえれ侍』が掲載されていない。ぜひとも掲載してほしいものだ。
『よみがえれ侍』は漫画の続編や番外編の内容を紹介した安恒理(やすつねおさむ)著『「巨人の星」から「ルパン三世」まで“アフター・ストーリー”全掲載!!』(辰巳出版、2004年9月25日)で、本編のあらすじとともに活字で紹介された。もっとも、この本では落合博満を「落合博光」と書く誤植をしている。

番場蛮の甥が第2次藤田巨人に入ったが、藤田監督の第2次は89年から92年まで。93年から第2次長嶋巨人である。番場の甥が入団したあと、巨人が優勝したのは94年以降であった。
番場蛮の故郷・高知県では八幡太郎平が土佐嵐高校を指導していたようだが、『ドカベン・プロ野球編』の設定では、高知の土佐丸高校に犬飼小次郎が90年春から93年春まで在籍(土井垣と同学年と假定)。93年から小次郎はダイエーに入団、95年からダイエーは王貞治の指揮下になった。

河崎実『「巨人の星」の謎』によると、1993年のペナントレースで長嶋が『侍ジャイアンツ』の川上監督と同じような台詞を言ったらしい。『週刊ベースボール』創刊2000号で長嶋監督は「サムライ、うん、ウチに一番足りないのはサムライの精神なんだ。アウトロー的なヤツが必要なんだ」と言ったらしい(『「巨人の星」の謎』より)。

番場蛮が四国アイアンドッグスに入ったら土佐丸野球+サムライ野球で、東京ルーパースターズをおびやかす強敵になっただろう。犬飼知三郎の超対角線投法と番場蛮のハラキリ・シュート、犬飼知三郎のフライ投法、坂田三吉の通天閣投法、番場蛮および甥のハイ・ジャンプ魔球は強い戦力となる。

番場の甥は番場蛮が没した直後に生まれたとすると74年以降に生まれたことになるが、74年生まれの松井秀喜(2009年 WBC には出場せず)や76年生まれの城島健司と世代が近くなる。イチローは73年のシーズン最後の巨人×阪神戦、番場蛮が巨人のセ・リーグV9を決めたときに生まれた選手である。
もし、2009年まで甥の番場が現役であれば、侍ジャパンに参加したであろうか。

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