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侍ジャイアンツ(作品解説1、作品解説2、作品解説3


『侍ジャイアンツ』(作品解説1) 

『侍ジャイアンツ』と『巨人の星』は原作者が同じなので似ているのは確かだ。
『侍ジャイアンツ』の冒頭、1970年の日本シリーズで川上監督が「サムライがほしい!」とつぶやいたように、「サムライ」は巨人軍にとって一貫したテーマであった。
『巨人の星』では鉢の木、坂本龍馬など、武士道の話が頻出する。
『侍ジャイアンツ』は『巨人の星』で描かれた武士道を主題の中心に置いた作品である(注釋2)。

宮本武蔵が決闘に行く前、社に勝利を祈ろうとしてやめた話は、一徹が飛雄馬に語ったことがあるようで、1968年に一徹と明子が初詣でに行って長屋に戻ったとき、飛雄馬がそれを話していた。また、番場蛮が1971年に明治神宮に参拝したとき、眉月光も番場に同じ武蔵の話をしている。
そして、アニメの『新巨人の星II』ではヤクルトに入った花形が「ツバメ返し打法」で蜃気楼ボールを打った。

河崎実『「巨人の星」の謎』によると、梶原一騎は『巨人の星』のあとにすぐに『侍ジャイアンツ』を想いついたのではなく、川崎のぼる・作画の『巨人の星』連載中から、石井いさみ・作画で『モーレツ!巨人』『野獣の弟』という作品を發表、これらが『侍ジャイアンツ』の母体になっていったらしい。

1973年の球宴、原作では番場が大回転魔球で日ハムの張本らパ・リーグの強打者と対戦していたが、アニメでは番場はこの球宴の出場を辞退し、大回転魔球を編み出すために海で命がけの特訓をしているところだった。

原作で番場蛮は1974年のシーズン中、中日戦に勝利したあと、マウンドで没している。
このとき、番場は19歳。1970年度(春休みを除くと70年4月~71年3月)で高1、15~16歳とすると、74年度(74年4月~75年3月)で19~20歳なので、豊福氏も分析しているように、原作の番場の生年月日は1954年4/2~1975年4/1に入り、19歳の誕生日は1974年4/2~1975年4/1。そして74年後半戦の巨人×中日戦で19歳だったので、20歳の誕生日前になる。

原作で川上巨人の紅白戦(72年自主トレ期間)が描かれ、番場のいる紅軍の監督は長嶋、八幡のいる白軍の監督は王で、「長嶋監督」(「長島監督」と表記)と「王監督」ということばがここで使われていた。

アニメでは番場が73年の巨人V9に貢献し、日米ワールドシリーズで勝利したところまで描かれている。
原作では文庫第7巻の途中、「【9】不死鳥の章・男の魔球うなるの巻」までがアニメの終盤に相当する(原作の最終回は文庫第8巻「【11】V10試練の章・さらば!サムライ」→注釋2)。
アニメの最終回のラストシーンで作中の川上監督が言ったことばが、ネットで一時、話題になったことがある。
└→『侍ジャイアンツ』が描く西暦1973年(4)

そして、『侍ジャイアンツ』のあとの『新巨人の星』は『侍ジャイアンツ』との類似点が多くなっている(注釋2)。

星飛雄馬のスクリュー・スピン・スライディングはウルフの殺人的なスライディングに近く、星のSSスライディングを掛布が同じようなジャンプ&キックで破ったのは、番場が阪神に入る前のウルフのスライディングを破った技に似ている。
川上巨人時代の星飛雄馬と番場蛮は左投手という点が共通で、長嶋巨人時代の『新』の星飛雄馬が右投手という違いがあるが、番場蛮がバックネット直撃のノーコン剛速球を投げ、プロ入り後も打撃で活躍しているところは、『新』の星飛雄馬の右投げにも受け継がれている。
さらに、『侍』で番場蛮のコントロールが改善されると、投球フォームから球種を読まれる弱点が生じ、『新』の星飛雄馬も同じ運命をたどった。
また、『新』で花形がヤクルトに入ったのは『侍』の眉月光と同じ球団である。
阪神のロメオ・南条もウルフ・チーフの阪神入団と設定が近い。
また、星の蜃気楼の魔球は番場の魔球と原理こそ違うだろうが、分身魔球の一種である。

そして、『巨人のサムライ炎』は『巨人の星』と『侍ジャイアンツ』を合わせたような作品らしい。
└→『侍ジャイアンツ』(作品解説3)

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