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藤田元司(ふじたもとし、1931~2006)
何度か巨人を優勝させ、日本一に導いた名監督。
ちなみに、歴史的かな遣いで「藤」は「ふぢ」である。

 

 

藤田元司が巨人の現役投手だったのは1957年から1964年まで、1958年から背番号18。この背番号は3塁手だった星一徹もつけていた。投手としての18番は藤田から堀内恒夫、桑田真澄に受け継がれるが、星飛雄馬がつけることはなかった。
星飛雄馬が67年の秋、巨人の入団テストを受けたとき、堀内はすでに背番号18だったが、堀内がテスト海上に来る寸前、遠投テストの審査をしていた巨人軍の一員も背番号18だった。

 

 

 

藤田元司の現役時代は『ちかいの魔球』『黒い秘密兵器』で出がかれた時代に相当し、王や長嶋が入り、巨人がV9(1965~1973)に突入する前の時期。星飛雄馬が小学生から中学生、番場蛮と藤村甲子園が幼稚園(または保育園か)から小学校に上がる時期であった。

 

 

 

引退後、藤田はピッチングコーチに。

 

 

 

66年または67年夏、星飛雄馬が甲子園で血染めのボールを投げ、花形に敗れたとき、ほとんどの人が飛雄馬を「期待はずれ」と見なしたのに対し、藤田元司は星飛雄馬を「予想以上にいい投手だった」と評価していた。

 

 

 

69年の初め、飛雄馬が明子に書いたてがみによると、飛雄馬と伴が寝ていたとき、藤田コーチが枕を蹴っ飛ばしたらしい。
「野球人形」から脱却しようと焦る飛雄馬が都城で大リーグボール1号を失投して自滅したとき、その報告を受けた藤田は大いに落胆。しかし、飛雄馬がアトムズとに二軍戦で1号を復活させたときは、藤田は川上監督ともに観戦し、喜んでいた。

 

 

 

72年シーズン開幕当時、敵地・名古屋に向かう新幹線の中で、藤田コーチは番場蛮に対中日戦の先發を告げた。このとき、番場はすでに飛騨の山中で対面していた大砲万作と初めて試合で対戦したようだ。大砲をスカウトしたのは与那嶺要であった。

 

 

 

73年、開幕後に打者として投手・江夏と対戦した番場蛮が触身球を食らって肋骨を折られ、入院。巨人は投手陣の不振が続き、藤田元司は責任を取らされて二軍コーチに落とされた。このことは番場自身が語っていた。

 

 

 

80年、長島監督が勇退。この年の秋のドラフトで藤田新監督は原辰徳を獲得。

 

 

 

81年から83年まで藤田元司は巨人の監督を勤め、助監督が王貞治。
81年に巨人は日本一。このとき、巨人のエースは江川だったようだが、星飛雄馬は二軍コーチをしていただろうか。

 

 

 

84年からは王貞治に監督の座を譲った。

 

 

 

89年から再び監督となった藤田は小学生の新城童夢を起用。新しい東京ドームを仕事場にした童夢くんは中日の落合博満選手など、セの強打者と対戦。
この年も藤田監督は巨人を日本一に導いた。

 

 

 

91年(推定)、藤田監督は番場蛮の甥を入団させ、対中日戦(当時の中日監督は星野仙一)に桑田真澄の救援として起用。番場の甥は落合博満を三振に打ち取った。
92年のシーズンを最後に監督を辞任。長嶋茂雄に監督の座を譲った。

 

 

 

2002年から2003年まで原辰徳が監督。
2004年から2005年までの球界再編の時期は堀内恒夫が監督。
このようにめまぐるしく変わる「讀賣グループ内の人事異動」のお陰で原辰徳が再び監督の座に返り咲いた2006年、藤田元司はこの世を去った。

 

 

 

もし、星飛雄馬が川上Gや長嶋Gでなく藤田元司が監督だった時代の巨人に入団していたら、背番号18をもらえただろうかと、最近、ときどき、考える。

 

 

 

星飛雄馬が現役だったころ、投手出身の指導者には藤田元司ピッチングコーチや中尾二軍監督、杉下もいたが、どういうわけが星はこれらの先輩から助言を頼むことはなく、むしろ星のほうで彼らをまるで当てにしていなかった模様である。藤田元司は星に期待していたが、中尾は冷たく見ており、大LB3号誕生のときに高く評価したくらいである。
投手出身の先輩選手で飛雄馬に直接指導をしたのは、68年台湾キャンプのときに「新しい変化球を創れ」という意味の助言をした金田正一と、76年球宴後に右投手として復帰した飛雄馬に対しノーワインドアップを教えた王貞治であった。
飛雄馬は同時期に巨人のエースだった堀内とは、会話もしていないように見える。

 

 

 

www.giants.jp/G/museum/history/retsuden/fujita_m.html

 

 

 

星飛雄馬は川上監督のときは16番、長嶋監督の時は3番というように監督の現役時代の背番号を受けついだが、もし藤田監督の時代に飛雄馬が入団していたら背番号18を背負っただろうか。実際は、藤田巨人における背番号18のピッチャーは堀地恒夫であり桑田真澄であった。飛雄馬が巨人に入ったとき、監督が藤田や堀内でなかったことは、ある意味では不幸だったかも知れないが、別な意味では幸いだったかも知れない。星飛雄馬は背番号18を背負えない投手で、その悲劇は16番、3番を背負うことで目立たなくなっていたわけだ。
飛雄馬は投手でありながら金田や堀内でなく王や長嶋を越えることを目指していた意味で話が複雑になっていた。
背番号16は『黒い秘密兵器』の椿林太郎が受け継ぎ、『あばれジャイアンツ』とアニメ版『侍ジャイアンツ』でも背番号16を背負った選手がいたと思う。
背番号4は黒沢俊夫→番場蛮→番場の甥に受け継がれた。
巨人軍の「永久缺番」は実質、藤田元司の18番と同様、「継承背番号」である。

 

 

 

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2009年3/18