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徳川家光、家綱の時代 

『将軍家光忍び旅』
家光が上洛(1634年か)の際に身分をいつわっておこなった忍び旅は、その後、光圀を初めとして、その後の将軍、藩主、江戸町奉行に受け継がれ、江戸時代の日本の政治における人材面での缺陥を補う定番になっていた。家茂の上洛が1863年で、これが家光の上洛以来、230年ぶりに近い229年ぶりとすると、家光の上洛は1634年、すると1615年の大坂夏の陣から19年後ということになる。

『江戸を斬る・梓右近隠密帳』
『長七郎天下ご免!』『長七郎江戸日記』
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家光による「忍び旅」の影響
『水戸黄門』
徳川光圀(1628~1700→陽暦で1701)は徳川家光(1604~1651)より24歳年下である。
光圀は1634年に家光に謁見したらしい(Wiki)。当時、光圀は数え年7歳の子供で、家光は31歳の大人だったはず。家光が没しておよそ40年後、隠居したはずの光圀が日本全国を徒歩旅行。

『暴れん坊将軍』『大岡越前』
吉宗(1684~1751)「源六」と名乗っていた若き時代に、諸国を歩いていた光圀と出会ったことがある。
吉宗は1684年生まれであり、光圀より56歳年下。光圀が隠居をしていたのは晩年の10年間で、吉宗が数え年7歳から17歳までの少年期~思春期だった時期である。
吉宗が将軍になると、吉宗と南町奉行・大岡忠相(1677~1751→陽暦で1752)は身分をいつわって、または隠して、江戸市中を見て歩くことが多かった。
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『殿さま風来坊隠れ旅』
徳川治貞(1728~1789)と徳川宗睦(1733~1799→陽暦で1800)は、どちらも享保の改革の最中に生まれている。治貞は平賀源内(1728~1779→陽暦で1780)と同じ年に生まれ、没年は源内より20年あとであった。吉宗が没して10年近くたつと、家重のあとの家治の時代には治貞と宗睦が身分をいつわって旅行をしていた。

『江戸の鷹』で家治は「お鷹組」を組織し、『大江戸捜査網』では家斉に代わって寛政の改革をしていた松平定信が間接的に隠密同心を組織。
のちに定信が護衛として雇ったのが仕掛人・小杉十五郎だったというのは何かの因縁か。

『松平右近事件帳』
家斉の実弟・松平右近も偽名を名乗って町中で生活し、悪人の前では正体を明かして相手を斬っていた。

『八百八町夢日記』
その後、大岡忠相のやっていた「お忍び」の市中探査が、南町奉行から北町奉行に受け継がれることとなる。
鼠小僧が処刑されたはずの1832年、時の北町奉行・榊原忠之(1766~1837)が次郎吉を隠密として使っており、忠之自らも数え年67歳でありながら偽名を名乗って江戸市中を探査していた。
榊原忠之が生まれたのは家治の時代の初期であり、宗睦が尾張藩主になって6年目に生まれたようだ。
榊原忠之が鼠小僧を捕らえたのは家斉のころで、遠山景元こと金四郎(1793~1855)は当時、40歳だった。忠之が没したのは大塩平八郎の乱があった1837年で、金四郎は当時45歳。
なお、1837年には、のちの江戸時代最後の将軍・徳川慶喜が生まれている。

『お江戸捕物日記・照姫七変化』
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『遠山の金さん』『江戸を斬る』
1840年に北町奉行となった遠山景元(1793~1855)は遊び人となって江戸市中を歩きまわっていた。遠山景元が生まれたのは家斉の時代、奉行だったのは家慶の時代である。
町人姿の金四郎はいろいろな仕事をやっていたらしい。相棒として紫頭巾という女剣士もいた。
裁判官が事件の目撃者でないと事件を解決できず、証据も集められない裁判だったわけで、与力から同心、岡っ引きに至るまでろくな人材がいなかったのだろうか。
1844年にライバルだった南町奉行・鳥居耀蔵が失脚(中村主水の手によるものか)。
1845年、景元は南町奉行になった。大岡忠相の後輩である。奉行による市中探索が南町奉行に里帰りしたわけだ。この時期、「女ねずみ」が出現。
1851年に水野忠邦が没し、代わって1852年にのちの明治天皇(1868年即位、1912年没)が生まれた。
そして、黒船来航の直後、1855年に遠山景元はこの世を去った。
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2009年3/17