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『ドカベン』における「67年度」「73年度」「76年度」 

「明訓入学基準」では1958年5/5山田太郎誕生、1959年4/1岩鬼正美誕生。

_____「明訓入学基準」
________├───┐
________山田_岩鬼___原辰徳
1958年 3月______________ 1957年度末。
1958年 4/1______________ 学齢上、1957年度末。
1958年 4/2~30____________ 1958年度開始。長嶋茂雄公式戦デビュー。 
1958年 5月___00歳_________ 5/5山田太郎誕生。藤村甲子園4歳。
1958年 6月___00歳_________   
1958年 7月___00歳______00歳_ 7/22原辰徳誕生。  
1958年 8月___00歳______00歳_   
1958年 9月___00歳______00歳_   
1958年10月___00歳______00歳_  
1958年11月___00歳______00歳_ 稲尾連投で西鉄V。秋のドラフト。   
1958年12月___00歳______00歳_ 
1959年 1月___00歳______00歳_     
1959年 2月___00歳______00歳_ キャンプ。 
1959年 3月___00歳______00歳_ オープン戦。1958年度末。 
1959年 4/1___00歳_00歳___00歳_ 学齢上、1958年度末。4/1岩鬼正美誕生。
1959年 4/2~30_00歳_00歳___00歳_ 1959年度開始。4月プロ野球シーズン開幕。
1959年 5月___01歳_00歳___00歳_

16年後

________山田_岩鬼___原辰徳
1973年 3月___14歳_13歳中2_14歳_ 72年度末。
1973年 4/1___14歳_14歳休__14歳_ 学齢上、72年度末。
1973年 4/2~30_14歳_14歳中3_14歳_ 73年度開始、山田世代が中学3年に進級。
1973年 5月___15歳_14歳中3_14歳_ 
1973年 6月___15歳_14歳中3_14歳_   
1973年 7月___15歳_14歳中3_15歳_   
1973年 8月___15歳_14歳中3_15歳_   
1973年 9月___15歳_14歳中3_15歳_   
1973年10月___15歳_14歳中3_15歳_ 川上巨人セLV9。  
1973年11月___15歳_14歳中3_15歳_ 秋のドラフト。  
1973年12月___15歳_14歳中3_15歳_
1974年 1月___15歳_14歳中3_15歳_     
1974年 2月___15歳_14歳中3_15歳_ キャンプ。 
1974年 3月___15歳_14歳中3_15歳_ オープン戦。73年度末。 
1974年 4/1___15歳_15歳休__15歳_ 学齢上、73年度末。
1974年 4/2~30_15歳_15歳高1_15歳_ 74年度開始。山田世代が明訓に入学。
1974年 5月___16歳_15歳高1_15歳_
1974年 6月___16歳_15歳高1_15歳_   
1974年 7月___16歳_15歳高1_16歳_   
1974年 8月___16歳_15歳高1_16歳_ 第56回夏の甲子園。   
1974年 9月___16歳_15歳高1_16歳_   
1974年10月___16歳_15歳高1_16歳_ 中日セLV。長嶋茂雄引退。  
1974年11月___16歳_15歳高1_16歳_ 秋のドラフト。  
1974年12月___16歳_15歳高1_16歳_  
1975年 1月___16歳_15歳高1_16歳_     
1975年 2月___16歳_15歳高1_16歳_ キャンプ。 
1975年 3月___16歳_15歳高1_16歳_ オープン戦。74年度末。 
1975年 4/1___16歳_16歳休__16歳_ 学齢上、74年度末。
1975年 4/2~30_16歳_16歳高2_16歳_ 75年度開始。4月シーズン開幕。
1975年 5月___17歳_16歳高2_16歳_

『男どアホウ甲子園』で長嶋茂雄が藤村甲子園と初めて会ったのは1958年。この年、藤村甲子園は4歳になったはずだが、よく考えると、藤村甲子園の誕生日は山田太郎と同じ5月5日なので、開幕直後の4月では、甲子園少年は3歳と11箇月くらいだったことになる。1958年に藤村甲子園が長嶋と出会ったのが5月5日以降であれば、当時、藤村甲子園は4歳だったことになる。

1973年と74年には、のちに『新潟明訓対神奈川明訓』に登場することになる山田太郎と岩鬼正美が相次いで生まれた。
└→「新潟明訓基準」による山田と岩鬼の月別年齢変遷(誕生&高3)

山田と岩鬼が神奈川明訓の選手として甲子園に初出場したのは第56回、夏の全国大会であった。
この大会では神奈川から東海大相模が出場しており、原辰徳も出場した模様。
└→春と夏の甲子園

「明訓入学基準」によれば、山田世代が高2夏の甲子園で弁慶高校に敗れたのは「1975年夏」になるが、作中の描写を観ると、とてもそんな設定が残っているとは想えない。Wikipedia で調べると、土井垣をスカウトした日ハムの大沢監督は第1次でも76年以降だし、犬飼小次郎を獲得した南海ホークスの広瀬監督は78年以降である。第1次大沢監督が秋のドラフトで日ハムから土井垣を指名できたのは、75年の秋以降であり、作中の展開では、土井垣が日ハムに、小次郎が南海に入ったのはドラフト指名から9箇月後であった。